わたしの戦争体験集

わたしの戦争体験集

戦争の記憶を次世代に伝え、平和への想いを未来へつなげるために
組合員さんから寄稿いただいた、戦争体験談をご紹介します。

ラジオから流れるニュースで聞いた、大東亜戦争の開戦


枚方市 Bさん 90歳

私くしの年令は90歳、戦争の体験は昭和16年国民学校として入学、その年の12月8日に大東亜戦争が米国と真珠湾攻撃で始まる。



何が起こったのか、ラジオから流れるニュースで聞いたアメリカの艦隊が終結しているところへ攻撃したと云うニュースが翌日の新聞に大きくのせられ始まった。国民学校一年生である自分は始めピンとこなかったが、世間では大変な事になったとさわぎが大きく報導された。なにしろ国民学校一年生ただただ大人にしたがうしかなかった。



戦争が進むにしたがって日本の戦果は良く、出征兵隊さんの見送りが見られた1年目から2年間は非常に良く、勝利につながってこれたが、2年目の後半から戦果が悪くなって来た。その当時はとなり組が何よりの力になり、皆協力し合って物事を進めて行く時代だった。毎日ラジオから流れる戦果はだんだんと悪くなり、あっちこっちの戦場で負け戦の情報が多くなって来る。

あっちこっちの南方方面の島々で日本の玉砕があり、アメリカもだまっておりません。仕返しとして徐々に力をつけて来ており、日本の守りがだんだんと悪くなって学校へ行っても勉強は出来ず、毎日竹やりや木刀でもしアメリカが日本に上陸した時に対抗する準備をするといった教育だった。

毎日学校へ行くが兵隊さんの慰問袋を作った事があり、又天皇陛下は校門の入り口に奉安殿という所の中に写真が納められてあり、毎日登校下校には一礼。なにしろ天皇陛下は神様の様な壮大であり足を向けてはいけない時代でもあった。
いよいよ沖縄に上陸するとのニュースが。敵機のB29が本上を時々空高く飛来する様になって来る。



大阪市内の学校は親元を離れて地方のお寺や公民館へ疎開する学校が多く、親元を離れる気持ちはたいへんだった様だ。いよいよ大阪にB29が夜雨の降るがごとく大阪城を中心に、空が明るくなるほど焼吏弾が見る見るうちに落ちてきて焼き野原となる。口では簡単だ。なにしろ一夜にして森之宮・京橋あたりが焼ケ原に変わった。
日本の主要都市の大阪・名古屋・東京が全部爆撃を受けた。8月6日に広島、9日に長崎に原子爆弾が落とされ、日本が大きな打撃を受け見る影もなくなり、8月15日の昼頃に天皇陛下のお言葉が敗戦となり、多くの犠牲者が出た。云うまでもなくその後、国民は居食住に困る。

らじおからながれるにゅーすできいた、だいとうあせんそうのかいせん

ひらかたし Bさん 90さい

わたくしのねんれいは90さい、せんそうのたいけんはしょうわ16ねんこくみんがっこうとしてにゅうがく、そのとしの12がつ8かにだいとうあせんそうがべいこくとしんじゅわんこうげきではじまる。

なにがおこったのか、らじおからながれるにゅーすできいたあめりかのかんたいがしゅうけつしているところへこうげきしたというにゅーすがよくじつのしんぶんにおおきくのせられはじまった。こくみんがっこういちねんせいであるじぶんははじめぴんとこなかったが、せけんではたいへんなことになったとさわぎがおおきくほうどうされた。なにしろこくみんがっこう1ねんせいただただおとなにしたがうしかなかった。

せんそうがすすむにしたがってにほんのせんかはよく、しゅっせいへいたいさんのみおくりがみられた1ねんめから2ねんかんはひじょうによく、しょうりにつながってこれたが、2ねんめのこうはんからせんかがわるくなってきた。そのとうじはとなりぐみがなによりのちからになり、みなきょうりょくしあってものごとをすすめていくじだいだった。まいにちらじおからながれるせんかはだんだんとわるくなり、あっちこっちのせんじょうでまけいくさのじょうほうがおおくなってくる。
あっちこっちのなんぽうほうめんのしまじまでにほんのぎょくさいがあり、あめりかもだまっておりません。しかえしとしてじょじょにちからをつけてきており、にほんのまもりがだんだんとわるくなってがっこうへいってもべんきょうはできず、まいにちたけやりやぼくとうでもしあめりかがにほんにじょうりくしたときにたいこうするじゅんびをするといったきょういくだった。

まいにちがっこうへいくがへいたいさんのいもんぶくろをつくったことがあり、またてんのうへいかはこうもんのいりぐちにほうあんでんというところのなかにしゃしんがおさめられてあり、まいにちとうこうげこうにはいちれい。なにしろてんのうへいかはかみさまのようなそうだいでありあしをむけてはいけないじだいでもあった。
いよいよおきなわにじょうりくするとのにゅーすが。てききのびー29がほんじょうをときどきそらたかくひらいするようになってくる。

おおさかしないのがっこうはおやもとをはなれてちほうのおてらやこうみんかんへそかいするがっこうがおおく、おやもとをはなれるきもちはたいへんだったようだ。いよいよおおさかにびー29がよるあめのふるがごとくおおさかじょうをちゅうしんに、そらがあかるくなるほどしょういだんがみるみるうちにおちてきてやけのはらとなる。くちではかんたんだ。なにしろいちやにしてもりのみや・きょうばしあたりがやけはらにかわった。

にほんのしゅようとしの おおさか・なごや・とうきょうがぜんぶばくげきをうけた。8がつ6かにひろしま、9にちにながさきにげんしばくだんがおとされ、にほんがおおきなだげきをうけみるかげもなくなり、8がつ15にちのひるごろにてんのうへいかのおことばがはいせんとなり、おおくのぎせいしゃがでた。いうまでもなくそのご、こくみんはいしょくじゅうにこまる。

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