わたしの戦争体験集

わたしの戦争体験集

戦争の記憶を次世代に伝え、平和への想いを未来へつなげるために
組合員さんから寄稿いただいた、戦争体験談をご紹介します。

遥かなる鉄路

城東区 Oさん 76歳

私が10歳ころまでに聞いた、父や母、兄の話です。


ボゥオオッ。警笛を鳴らしながら、SLが近づいてくる。街頭のほの暗い灯りに照らされ、黒いSLの姿が浮かび上った。

キクエは、線路脇の草むらに腹這い、今にも夜汽車にとび込もうと身構えていた。だが、夜汽車の発する轟音と地響きの、余りの凄まじさに圧倒され、尻込みしていた。
背中におんぶしている2歳の光男は、ネンネコの中でよく眠っている。

「おーい、キクエ、キクエはおらんか。」
夫の義和の呼ぶ声がする。キクエの家は踏切の側にある。



昭和23年、夜の吉都線。小林市駅へ向う最終の蒸気機関車が、売子木(きしゃのき)の踏切を通過しようしていた。

遠ざかる警笛の音をききながら、キクエは「きょうもできんかった」と胸に呟いていた。

「まこて、おまや、何を考えちょっとか。馬鹿な真似をするな」
夫の義和の叱る声が、キクエの耳に届いた。

義和は、ネンネコの中の顔を覗き込むと、背中を優しくさすった。キクエは義和の第一子を身妊っていた。背中の光男は、キクエの連れ子である。昭和22年に、キクエの伯母の世話で、義和40歳、キクエ23歳で結婚。然し、キクエは光男の父である大阪出身の兵士を忘れられずにいた。妊娠中も産後も伯母の家で世話になり肩身の狭い暮らしをしてきた。伯母の図らいで義和と結婚したものの、キクエの心は揺れていた。

夜になると、夜汽車にとびこもうとする妻を、毎夜の如く、まんじりと眠りもせず見張るような生活であった。

義和もキクエも無学。学校教育を受けることなく成人した。

義和は5人兄妹の末子で、幼少期から農家で奉公。農作業や林業に従事して成長した。義和は明朗で多弁。気軽に他人の世話をし、手先も器用で、人に好かれた。30代では九州の炭坑で働き、貯えも持っていた。キクエとの新居を踏切の側の土地に建てていた。
一方、キクエは9人姉弟の長女に生まれたが、母親はキクエ15歳の時に病死した。その為、キクエは、8人の弟妹達の母親代りとして難儀をして思春期を過ごした。キクエの父親は鉄砲打ちで猟師をしていた。生活の為、宮崎県と熊本県の辺境の奥地に家族と共に住んだ。猟師は一旦、狩りに出ると一週間は戻らない。キクエ達は弟妹と助け合いながら、畑仕事や家事をこなし、乳幼児の世話をした。


昭和19年、戦争中である。キクエは19歳になっていた。キクエの住む山奥には、日本軍の軍事施設があった。毎日のように小型軍用機が飛び、落下傘部隊の訓練が行われていた。地元の者には緘口令が敷かれ秘密の場所とされていた。


山奥に石塊のゴロゴロする河原があった。河原の方角から、時折、グシャッ、ウーンと人間の唸る声、助けてくれという声が聞こえた。

キクエ達の住む家にもその音はきこえた。キクエは弟妹を連れ、林の木々の隙間から河原を覗いた。河原には落下傘降下に失敗した兵士達の無惨な姿があった。キクエ達は恐ろしさの余り、家に逃げ帰り押し黙って震えていた。

キクエは集落の婦人達と、山奥の兵隊さん達に食料の差し入れをする事があった。主に薩摩芋の蒸した物を竹のザルに入れ慰問をした。


何度か通う内に、キクエは大阪出身の兵士と仲良くなり恋仲となった。終戦が迫っていたが当時、二人はそのことを知る由もなかった。


昭和20年8月終戦。大阪の兵士は10月頃に除隊となり帰阪した。

彼は、小さなメモ書きをキクエに残した。キクエは漢字が読めなかった。大阪市内の住所が書かれたそのメモを、数年間大切に持ち続けた。


義和との間に次々と4人の子供が産まれ、5人の母親となった。無口で働き者のキクエは、近所でも評判の嫁となった。義和の脳裡からキクエの不穏行動への心配は、日々薄れていった。

5人の子供達は、無口で優しいキクエが大好きだった。水汲みや、小川での洗濯、釜風呂の火炊き、座敷や庭の掃除など、子供達はよく手伝って母の加勢をした。


キクエの持っていたメモ書きは、永久に、キクエのエプロンの中にしまわれたままである。

はるかなるてつろ

じょうとうく Oさん 76さい

わたしがじゅっさいころまでにきいた、ちちやはは、あにのはなしです。


ぼうおおっ。けいてきをならしながら、えすえるがちかづいてくる。がいとうのほのぐらいあかりにてらされ、くろいえすえるのすがたがうきあがった。


きくえは、せんろわきのくさむらにはらばい、いまにもよぎしゃにとびこもうとみがまえていた。だが、よぎしゃのはっするごうおんとじひびきの、あまりのすさまじさにあっとうされ、しりごみしていた。


せなかにおんぶしている2さいのみつおは、ねんねこのなかでよくねむっている。

「おーい、きくえ、きくえはおらんか。」

おっとのよしかずのよぶこえがする。きくえのいえはふみきりのそばにある。


しょうわ23ねん、よるのきっとせん。こばやしえきへむかうさいしゅうのじょうききかんしゃが、きしゃのきのふみきりをつうかしようとしていた。

とおざかるけいてきのおとをききながら、きくえは「きょうもできんかった」とむねにつぶやいていた。


「まこて、おまや、なにをかんがえちょっとか。ばかなまねをするな」


おっとのよしかずのしかるこえが、きくえのみみにとどいた。

よしかずは、ねんねこのなかのかおをのぞきこむと、せなかをやさしくさすった。きくえはよしかずのだいいっしをみごもっていた。せなかのみつおは、きくえのつれごである。しょうわ22ねん、きくえのおばのせわで、よしかず40さい、きくえ23でけっこん。しかし、きくえはみつおのちちであるおおさかしゅっしんのへいしをわすれられずにいた。にんしんちゅうもさんごもおばのいえでせわになり、かたみのせまいくらしをしてきた。おばのはからいでよしかずとけっこんしたものの、きくえのこころはゆれていた。

よるになると、よぎしゃにとびこもうとするつまを、まいよのごとく、まんじりとねむりもせずみはるようなくらしであった。


よしかずもきくえもむがく。がっこうきょういくをうけることなくせいじんした。

よしかずは5にんきょうだいのまっしで、ようしょうきからのうかでほうこう。のうさぎょうやりんぎょうにじゅうじしてせいちょうした。よしかずはめいろうでたべん。きがるにたにんのせわをし、てさきもきようで、ひとにすかれた。30だいではきゅうしゅうのたんこうではたらき、たくわえももっていた。きくえとのしんきょをふみきりのそばのとちにたてていた。

いっぽう、きくえは9にんきょうだいのちょうじょにうまれたが、ははおやはきくえ15さいのときにびょうしした。そのため、きくえは、8にんのおとうといもうとたちのははおやがわりとしてなんぎをしてししゅんきをすごした。きくえのちちはてっぽううちでりょうしをしていた。せいかつのため、みやざきけんとくまもとけんのへんきょうのおくちにかぞくとともにすんだ。りょうしはいったんかりにでると1しゅうかんはもどらない。きくえたちはおとうといもうととたすけあいながら、はたけしごとやかじをこなし、にゅうようじのせわをした。

しょうわ19ねん、せんそうちゅうである。きくえは19さいになっていた。きくえのすむやまおくには、にほんぐんのぐんじしせつがあった。まいにちのようにこがたぐんようきがとび、らっかさんぶたいのくんれんがおこなわれていた。じもとのものにはかんこうれいがしかれ、ひみつのばしょとされていた。

やまおくにいしかいのごろごろするかわらがあった。かわらのほうこうから、ときおり、ぐしゃっ、うーんとにんげんのうなるこえ、たすけてくれというこえがきこえた。


きくえたちのすむいえにもそのおとはきこえた。きくえはおとうといもうとをつれ、はやしのきぎのすきまからかわらをのぞいた。かわらにはらっかさんこうかにしっぱいしたへいしたちのむざんなすがたがあった。きくえたちはおそろしさのあまり、いえににげかえりおしだまってふるえていた。


きくえはしゅうらくのふじんたちと、やまおくのへいたいさんたちにしょくりょうのさしいれをすることがあった。おもにさつまいものむしたものをたけのざるにいれいもんをした。
なんどかかよううちに、きくえはおおさかしゅっしんのへいしとなかよくなりこいなかとなった。しゅうせんがせまっていたがとうじ、ふたりはそのことをしるよしもなかった。


しょうわ20ねん8がつしゅうせん。おおさかのへいしは10がつごろにじょたいとなりきはんした。


かれは、ちいさなめもがきをきくえにのこした。きくえはかんじがよめなかった。おおさかしないのじゅうしょがかかれたそのめもを、すうねんかんたいせつにもちつづけた。
よしかずとのあいだにつぎつぎと4にんのこどもがうまれ、5にんのははおやとなった。むくちではたらきもののきくえは、きんじょでもひょうばんのよめとなった。よしかずののうりからきくえのふおんこうどうへのしんぱいは、ひびうすれていった。

5にんのこどもたちは、むくちでやさしいきくえがだいすきだった。みずくみや、おがわでのせんたく、かまぶろのひたき、ざしきやにわのそうじなど、こどもたちはよくてつだってははのかせいをした。


きくえのもっていためもがきは、えいきゅうに、きくえのえぷろんのなかにしまわれたままである。

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