

戦争の記憶を次世代に伝え、平和への想いを未来へつなげるために
組合員さんから寄稿いただいた、戦争体験談をご紹介します。
枚方市 Oさん 83歳
防空壕 父手作りの 命懸け 知らない子らは 騒ぎで遊ぶ
<説明>父は自宅玄関と垣根の間に穴を掘り、防空壕を造っていた 。私達を守るために。
用水路 必死で走る 馬の列 不思議なようす 立ち止まるわれ
<説明>用水路からパカパカという音に目をやると、こんな所に馬の行列。「何んで!」と思った。後で聞いたのは、馬の背が高いので目立ち、すぐ焼夷弾にやられるので持主が用水路を利用して逃げさせた。との事でした。
草履脱げ 取りに行きたし 空見上げ 「死ぬのは嫌だ」 手を握る母
<説明>私のぞうりが脱げて母に「一人で取ってくる」と、そんな事していたら死んでしまう!と云われ、安心して裸足で走り続けていた。
プスプスと 焼夷弾が 突きささる 逃げ惑うなか 防空壕だ
<説明>防空壕の中にはすでに人がいて、水が私のひざあたり迄来て、それでもこの中が安心と思った。夜が明け、母が「もう大丈夫帰ろう」となった。おかげで5人の尊い命は助かりました。
一夜明け 家に帰るも 主おらず 線香あげて 無事祈りつつ
時は過ぎ 悲しみ暮れる 日々のなか
突然戸開き 無言の父だ
<説明>父親は当時、兵庫県・川西航空に勤務しており、一番の敵として「爆弾にやられ、死者も多く、後片付けも大変だった」との事でやっと一週間後に帰宅。「電話するどころではなかった」と父。母が「何んで電話くらいしてくれなかったの~」と言っていた。
母と友 戦火逃れて 繋ぎおり ときは流れし 君と語らん
<説明>母と友達は今は亡くなり、息子さんとの交流が続いています。
私の戦争体験を和歌集にしました。順番にも意味があります。
当時、3歳だった私でしたが、当時の様子を鮮明に覚えています。
弟には「そんなこと、覚えているわけがない」と言われましたが、母にも確認したけど本当だった。人に聞いた話ではないんです。頭の脳裏に残ってしまって抜けないのです。今でも情景が思い浮かびます。
母の友人の娘さんも同じ3歳で、今でも交友関係にあります。実はこの句は、この戦争体験集の募集を知る前にその友人にあてて作っていたものでした。
でも、この募集のほうが大切だ!と思って、友人に見せる前にこちらに応募しました。
その友人とは、同じ防空壕にも入った仲です。当時は幼かったので防空壕は遊ぶところだと思っていました。
父にも母にも、戦争の事をもっとたくさん聞きたかった。父に「周りの人はほとんど亡くなったのに何で助かったのか…」など聞きたかったです。それが残念。
こういうことはもう二度と起こってはいけないと思います。
ひらかたし Oさん 83さい
ぼうくうごう ちちてづくりの いのちがけ しらないこらは さわぎであそぶ
<せつめい>ちちはじたくげんかんとかきねのあいだにあなをほり、ぼうくうごうをつくっていた。 わたしたちをまもるために。
ようすいろ ひっしではしる うまのれつ ふしぎなようす たちどまるわれ
<せつめい>ようすいろからぱかぱかというおとにめをやると、こんなところにうまのぎょうれつ。 「なんで!」とおもった。あとできいたのは、うまのせがたかいのでもめだち、すぐしょういだんにやられるのでもちぬしがようすいろをりようしてにげさせた。とのことでした。
ぞうりぬげ とりにいきたし そらみあげ 「しぬのはいやだ」 てをにぎるはは
<せつめい>わたしのぞうりがぬげてははに「ひとりでとってくる」と、そんなことしていたらしんでしまう!といわれ、あんしんしてはだしではしりつづけていた。
ぷすぷすと しょういだんが つきささる にげまどうなか ぼうくうごうだ
<せつめい>ぼうくうごうのなかにはすでにひとがいて、みずがわたしのひざあたりまできて、それでもこのなかがあんしんとおもった。よがあけ、ははが「もうだいじょうぶかえろう」となった。おかげで5にんのとうといいのちはたすかりました。
ひとよあけ いえにかえるも ぬしおらず
せんこうあげて ぶじいのりつつ
ときはすぎ かなしみくれる ひびのなか
とつぜんとあき むごんのちちだ
<せつめい>ちちはとうじ、ひょうごけん・かわにしこうくうにきんむしており、いちばんのてきとして「ばくだんにやられ、ししゃもおおく、あとかたづけもたいへんだった」とのことでやっといっしゅうかんごにきたく。「でんわするどころではなかった」とちち。 ははが「なんででんわくらいしてくれなかったの~」といっていた。
ははととも せんかのがれて つなぎおり ときはながれし きみとかたらん
<せつめい>ははとともだちはいまはなくなり、むすこさんとのこうりゅうがつづいています。
わたしのせんそうたいけんをわかしゅうにしました。じゅんばんにもいみがあります。
とうじ、3さいだったわたしでしたが、とうじのようすをせんめいにおぼえています。
おとうとには「そんなこと、おぼえているわけがない」といわれましたが、ははにもかくにんしたけどほんとうだった。ひとにきいたはなしではないんです。あたまののうりにのこってしまってぬけないのです。いまでもじょうけいがおもいうかびます。
ははのゆうじんのむすめさんもおなじ3さいで、いまでもこうゆうかんけいにあります。じつはこのくは、このせんそうたいけんしゅうのぼしゅうをしるまえにそのゆうじんにあててつくっていたものでした。
でも、このぼしゅうのほうがたいせつだ!とおもって、ゆうじんにみせるまえにこちらにおうぼしました。
そのゆうじんとは、おなじぼうくうごうにもはいったなかです。とうじはおさなかったのでぼうくうごうはあそぶところだとおもっていました。
ちちにもははにも、せんそうのことをもっとたくさんききたかった。ちちに「まわりのひとはほとんどなくなったのになんでたすかったのか…」などききたかったです。それがざんねん。
こういうことはもうにどとおこってはいけないとおもいます。