わたしの戦争体験集

わたしの戦争体験集

戦争の記憶を次世代に伝え、平和への想いを未来へつなげるために
組合員さんから寄稿いただいた、戦争体験談をご紹介します。

戦争と干し柿

大阪市城東区 Sさん 65歳

私の叔父は、兵隊として中国に渡り、戦後二年程シベリア抑留となり、無事に日本に帰還しました。シベリア抑留では想像を絶するような辛い事があったと思いますが、叔父からは「皆で助け合う事で日本に帰ることができた」とだけ聞きました。(シベリア抑留の話は息子さんもあまり聞いていないとの事です)

ここからは、母から聞いたお話をお伝えします。

まずは、戦地に赴く前のお話をします。
叔父は二十歳位で徴兵されました。年齢的にも徴収されるのがわかっていたので、戦地では食料が少ないだろうから、飢えに耐えられるようにご飯の量を徐々に減らして、胃を小さくするようにしたそうです。戦地に行く前から兵隊として耐えられる身体作りをしたという事もあるかとは思いますが、無事に帰れるようにとの家族の思いがわかります。母は兄(叔父)だけがご飯の量が少なかったことを良く覚えていて、かわいそうに思ったそうです。



次に、私が母と一緒に干し柿を作った時に聞いたお話です。
田舎では、毎年恒例のように家の庭にある渋柿から干し柿を作ります。渋柿を収穫し、柿の皮を包丁で丁寧に剥き、紐に括り付け、吊るす作業をする折に、母は毎年毎年しつこいくらい私に話しました。

戦後、食料難で砂糖が手に入らない時代、干し柿は、甘い食べ物で羊羹代わりにもなり、日持ちもして非常食としても使えました。そんな折に、まだ帰ってこない兄(叔父)のためにたくさんの干柿を作ったそうです。(田舎なので渋柿はいっぱい生っている)いつ帰って来るかもわからない兄(叔父)のために祈るような思いで皮をむき、家の軒に吊して干し柿にしたのでしょう。到底食べきれない位の干し柿が地下の保管庫に入れられたと母は言っていました。

シベリアでは 食べるものも少なく甘い物など食べる事もないだろうから帰ってきたら甘い物もいっぱい食べさせてあげたいとの思い、 帰ってくることを願ってはいるが 何かしていないと気持ちが持ちこたえられない辛さがあったと母は言っていました。
そして、幸い叔父は日本に戻る事ができました。祈る思いで作られた干し柿はきっとすごく甘く美味しかったでしょうね。

叔父は、その後「日本一おいしい富有柿」の産地で柿農家として生計をたて、敵を作らない穏やかな生き方をしました。母は兄(叔父)について、「戦争体験で生きぬくための処世術を学んだのではないか」とよく話していました。

また、母は戦後70年の折に私にボソッと「戦争の事は、当時を知っている人がいる間にみんなに伝えないといけない。テレビでも特集しているし、ほんの些細な事でもみんなに知ってもらいたい」とも言っていました。

この干し柿のエピソードは戦争体験と言えるような話ではないですが、戦地からの帰りを待つその当時の家族の思いが伝わる温かいお話の一つです。

せんそうとほしがき

おおさかしじょうとうく Sさん 65さい

わたしのおじは、へいたいとしてちゅうごくにわたり、せんご2ねんほどしべりあよくりゅうとなり、ぶじににほんにきかんしました。しべりあよくりゅうではそうぞうをぜっするようなつらいことがあったとおもいますが、おじからは「みんなでたすけあうことでにほんにかえることができた」とだけききました。(しべりあよくりゅうのはなしはむすこさんもあまりきいていないとのことです)

ここからは、ははからきいたおはなしをおつたえします。
まずは、せんちにおもむくまえのおはなしをします。
おじははたちぐらいでちょうへいされました。ねんれいてきにもちょうしゅうされるのがわかっていたので、せんちではしょくりょうがすくないだろうから、うえにたえられるようにごはんのりょうをじょじょにへらして、いをちいさくするようにしたそうです。せんちにいくまえからへいたいとしてたえられるからだづくりをしたということもあるかとはおもいますが、ぶじにかえれるようにとのかぞくのおもいがわかります。はははあに(おじ)だけがごはんのりょうがすくなかったことをよくおぼえていて、かわいそうにおもったそうです。

つぎに、わたしがははといっしょにほしがきをつくったときにきいたおはなしです。
いなかでは、まいとしこうれいのようにいえのにわにあるしぶがきからほしがきをつくります。しぶがきをしゅうかくし、かきのかわをほうちょうでていねいにむき、ひもにくくりつけ、つるすさぎょうをするおりに、はははまいとしまいとししつこいくらいわたしにはなしました。
せんご、しょくりょうなんですとうがてにはいらないじだい、ほしがきは、あまいたべものでようかんがわりにもなり、ひもちもしてひじょうしょくとしてもつかえました。そんなおりに、まだかえってこないあに(おじ)のためにたくさんのほしがきをつくったそうです。(いなかなのでしぶがきはいっぱいうなっている)いつかえってくるかもわからないあに(おじ)のためにいのるようなおもいでかわをむき、いえののきにつるしてほしがきにしたのでしょう。とうていたべきれないくらいのほしがきがちかのほかんこにいれられたとはははいっていました。
しべりあでは たべるものもすくなくあまいものなどたべることもないだろうからかえってきたらあまいものもいっぱいたべさせてあげたいとのおもい、 かえってくることをねがってはいるが なにかしていないときもちがもちこたえられないつらさがあったとははいっていました。
そして、さいわいおじはにほんにもどることができました。いのるおもいでつくられたほしがきはきっとすごくあまくおいしかったでしょうね。
おじは、そのご「にほんいちおいしいふゆうがき」のさんちでかきのうかとしてせいけいをたて、てきをつくらないおだやかないきかたをしました。はははあに(おじ)について、「せんそうたいけんでいきぬくためのしょせいじゅつをまなんだのではないか」とよくはなしていました。
また、はははせんご70ねんのおりにわたしにぼそっと「せんそうのことは、とうじをしっているひとがいるあいだにみんなにつたえないといけない。てれびでもとくしゅうしているし、ほんのささいなことでもみんなにしってもらいたい」ともいっていました。

このほしがきのえぴそーどはせんそうたいけんといえるようなはなしではないですが、せんちからのかえりをまつそのとうじのかぞくのおもいがつたわるあたたかいおはなしのひとつです。

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