

戦争の記憶を次世代に伝え、平和への想いを未来へつなげるために
組合員さんから寄稿いただいた、戦争体験談をご紹介します。
枚方市 Kさん 89歳
今年九十才の私の、小学校一年で始まった太平洋戦争は四年生の夏に終わった。
どうして戦争になったのか、これからどうなるのかもわからずに、親や先生の言うまま戦争に参加していた。母が街角で道ゆく人に、白い長い晒の布に赤い糸玉をつけてくれるよう頼んでいる。千人針といって敵の弾にあたらないらしい。
戦争が激しくなると学童疎開が始まった。親からはなれ子供達だけで学校に住む。その頃校庭は殆んど畑になっていった。私の移った学校の近くの山に米機が墜落して負傷した米兵が駐在所につれて来られた。金髪を振り乱し後ろ手にしばられ、怪我をしているのか血がついている。鬼畜米英を教えこまれていた私は、赤ら顔・青い目・金髪の大きな体を見て鬼だと思った。
下の町から引き取りに来るまで彼は涙を流してわめき続けていた。きっと「お母さん助けて」と言っているのではないかと可愛そうに思ったのを今でも憶えている。彼がつけていた布がステープルファイバーと呼ばれる珍しい物と分かって村民に小さく切って配られた。戦後スフと呼ばれた、すぐシワになる布である。戦争を終わらせたといわれる原爆投下で焼けただれた人の背中の新聞写真を見た。10才の私には大ショックだった。
八十年経った今でも、駐在所で泣きわめいていた若い米兵の傷ついた姿と、あの背中の写真が消えずに残っている。
世界のあちこちで起こっている戦争のニュースを見ると思いが上がって来る。
そして曾祖母となった今は、彼等をいつくしみ育てた人々の嘆きかなしみが胸をしめつける。
ひらかたし Kさん 89さい
ことしきゅうじゅっさいのわたしの、しょうがっこういちねんで はじまったたいへいようせんそうはよねんせいのなつにおわった。
どうしてせんそうになったのか、これからどうなるのかもわからずに、おややせんせいのいうまませんそうにさんかしていた。ははがまちかどでみちゆくひとに、しろいながいさらしのぬのにあかいいとだまをつけてくれるようたのんでいる。せんにんばりといっててきのたまにあたらないらしい。
せんそうがはげしくなるとがくどうそかいがはじまった。おやからはなれこどもたちだけでがっこうにすむ。そのころこうていはほとんどはたけになっていった。わたしのうつったがっこうのちかくのやまにべいきがついらくしてふしょうしたべいへいがちゅうざいしょにつれてこられた。きんぱつをふりみだしうしろでにしばられ、けがをしているのかちがついている。きちくべいえいをおしえこまれていたわたしは、あからがお・あおいめ・きんぱつのおおきなからだをみておにだとおもった。
したのまちからひきとりにくるまでかれはなみだをながしてわめきつづけていた。きっと「おかあさんたすけて」といっているのではないかとかわいそうにおもったのをいまでもおぼえている。かれがつけていたぬのがすてーぷるふぁいばーとよばれるめずらしいものとわかってそんみんにちいさくきってくばられた。せんごすふとよばれた、すぐしわになるぬのである。せんそうをおわらせたといわれるげんばくとうかでやけただれたひとのせなかのしんぶんしゃしんをみた。10さいのわたしにはだいしょっくだった。
はちじゅうねんたったいまでも、ちゅうざいしょでなきわめいていたわかいべいへいのきずついたすがたと、あのせなかのしゃしんがきえずにのこっている。
せかいのあちこちでおこっているせんそうのにゅーすをみるとおもいがあがってくる。
そしてそうそぼとなったいまは、かれらをいつくしみそだてたひとびとのなげきかなしみがむねをしめつける。