

戦争の記憶を次世代に伝え、平和への想いを未来へつなげるために
組合員さんから寄稿いただいた、戦争体験談をご紹介します。
枚方市 Iさん 88歳
昭和20年8月6日午前8時15分、紺ぺきの空を切り裂くように、閃光が走るのを目撃しました。当時小学3年生だった私は、広島市から約70キロ離れた三原市の郊外を歩いていました。後で分った事は、あの閃光は原子爆弾でした。
その日の夕方、被爆した青年が私の近所に住む両親の元に運ばれてきました。
私は母と見舞いに行き、あまりにひどい姿に目をそらした。肩から胸、背中にかけて肉が裂け桃色に盛り上がり、
「お母さん…水が…欲しい」
とあえぎながら必死に水を欲していました。
青年は爆心地から5キロ離れた場所で点呼体操をしている時、被爆したのです。あれから80年、今もあの日の「光景」は脳裏に鮮明に焼き付いています。
終戦直後の町と我が家
私は小学3年生のとき、広島県三原市で終戦を迎えました。その日はいつも行われる防火訓練もなく、空襲警報のサイレンも鳴らず、町全体がシーンと静まり返って不気味に感じました。
「正午に重大放送があるからラジオのある家に集まるように」との回覧板が回ってきましたが、その家が分からず、玉音放送は聞けませんでした。
その夜、父は帰ってくるなり
「日本は戦争に負けた」と言い、肩を落としました。
灯火管制が解除され、久し振りに明るい電球の下でふかしたサツマイモを食べました。
あの時の電球の明るさとサツマイモの美味しさは、80年経った今でも鮮明に覚えています。
ひらかたし Iさん 88さい
しょうわに20ねん8がつ6かごぜん8じ15ふん、こんぺきのそらをきりさくように、せんこうがはしるのをもくげきしました。とうじしょうがく3ねんせいだったわたしは、ひろしましからやく70きろはなれたみはらしのこうがいをあるいていました。のちにわかったことは、あのせんこうはげんしばくだんでした。
そのひのゆうがた、ひばくしたせいねんがわたしのきんじょにすむりょうしんのもとにはこばれてきました。
わたしはははとみまいにいき、あまりにひどいすがたにめをそらしました。かたからむね、せなかにかけてにくがさけももいろにもりあがり、
「おかあさん…みずが…ほしい」
とあえぎながらひっしにみずをほっしていました。
せいねんはばくしんちから5きろはなれたばしょでてんこたいそうをしているとき、ひばくしたのです。あれから80ねん、いまもあのひの「こうけい」はのうりにせんめいにやきついています。
しゅうせんちょくごのまちとわがや
わたしはしょうがく3ねんせいのとき、ひろしまけんみはらしでしゅうせんをむかえました。そのひはいつもおこなわれるぼうかくんれんもなく、くうしゅうけいほうのさいれんもならず、まちぜんたいがしーんとしずまりかえってぶきみにかんじました。
「しょうごにじゅうだいほうそうがあるかららじおのあるいえにあつまるように」とのかいらんばんがまわってきましたが、そのいえがわからず、ぎょくおんほうそうはきけませんでした。
そのよる、ちちはかえってくるなり
「にほんはせんそうにまけた」といい、かたをおとしました。
とうかかんせいがかいじょされ、ひさしぶりにあかるいでんきゅうのしたでふかしたさつまいもをたべました。
あのときのでんきゅうのあかるさとさつまいものおいしさは、80ねんたったいまでもせんめいにおぼえています。