わたしの戦争体験集

わたしの戦争体験集

戦争の記憶を次世代に伝え、平和への想いを未来へつなげるために
組合員さんから寄稿いただいた、戦争体験談をご紹介します。

学童疎開と避難生活の回想

学童疎開と避難生活の回想

大阪市中央区 Yさん 88歳

学童疎開と避難生活の回想

あれは、小学2年の頃でした。大阪・天満から、学校のみんなで疎開したのを覚えています。向かった先は、枚方の香里園。わずか1週間ほどでしたが、3年生からは上はお寺に寝泊まりしたり、1~2年生は大きなお家に一人ずつそれぞれ預けられていました。入浴なども、その家のお世話になりながらの日々でした。

妹は昭和17年、弟は昭和19年の生まれ。父は銀行員で、何かあったときに駆け付けられるように銀行の管理なども任されていました。母は空襲を避けて、牛の荷車で一足先に妹と弟と奈良へ。実家が奈良にあったので、そこを頼りに一時避難していたのです。私は父と叔父夫婦と一緒に造幣局の側に建っていた家で暮らしていました。学校もあり、まだ日常が残っていたので、子どもながらにそれが当たり前だと思っていたんでしょう。寂しいとか、不安だとか、そういう感情はあまりなかったように思います。
空襲が本格化してくると防空壕に避難する日々。ある朝、学校へ向かう途中、道端に倒れていた人を見て、「あれ、死んでるんや」と言われたのを覚えています。爆風で家が飛ばされ、そこから飛び出て倒れたまま、動かなくなった人でした。とても怖くてもう見れませんでした。
梅田での空襲のあと、逃げてくる人々の姿が印象に残っています。ある女性が、お櫃の桶を抱えて走っていた光景が、今も記憶の中に鮮明にあります。なぜだかわからないけれど、きっと、近くにあるものを咄嗟に手にして逃げたのでしょう。

やがて、家族そろって母の実家で奈良の生駒のふもとに疎開することになりました。小学3年から5年までの間、蚕部屋を借りて、親子4人での生活。戦争と隣り合わせの暮らしの中、学校生活もありました。バスはなく、4年生までは分教場では先生がひとりで、全教科を教えてくれました。5年生からは1時間かけて歩いて本校へ登校。そんな生活を送っていたので、「今でも10キロは歩けるよ」と笑って話せるほどです。
疎開生活中、B29が交野の空を飛んでいたのを見ました。サーチライトで照らしても、高射砲の届かない高さ。大阪に爆弾を落とした後、余った爆弾は四国に投下されたとも聞きました。

当時は、軍歌を日常のように歌っていました。夫は終戦時に中学1年で、奈良の柳本の飛行場建設のために泥を運ぶ作業に駆り出されていたと聞きます。敵機が低空飛行すると伏せるように、と指導されていたそうです。私も疎開先で兵隊さんの家の草刈りの手伝いをしていたのですが、それもまた、戦争の一部だったのかもしれません。


6月7日の大空襲の時ついに、家も家業の酒屋も焼け落ちてしまいました。私が5年生の頃、戻ってきたときには、環状線が見えるほど町が焼け野原になっていました。その間、父は家が焼けてしまったので職場の銀行で寝泊まりしていました。父の実家には米を作らせていましたが、農地改革で小作人に土地の権利が移り、それも失われました。


その後、旭区の森小路に住むことになり、そこでまた新しい生活が始まりました。私は女学院へと進学しました。

日常で記憶にあるのは、配給でもらった"やし粉"をパン屋に持って行き、パンと交換してもらったことです。そのとき、初めてパンというものを食べたのを覚えています。



この話を応募しようと思ったのは、学童疎開のことをデイサービスで話したとき、誰も知らなかったからです。ましてや、戦争そのものを知らない人もいました。だからこそ、この機会に知ってもらいたいと思ったのです。

(吉岡さんの文章は、取材させていただき編集担当がまとめたものです)

がくどうそかいとひなんせいかつのかいそう

おおさかしちゅうおうく Yさん 88さい

あれは、しょうがく2ねんのころでした。おおさか・てんまから、がっこうのみんなでそかいしたのをおぼえています。むかったさきは、ひらかたのこうりえん。わずか1しゅうかんほどでしたが、3ねんせいからはうえはおてらにねとまりしたり、1〜2ねんせいはおおきないえにひとりずつそれぞれあずけられていました。にゅうよくなども、そのいえのおせわになりながらのひびでした。


いもうとはしょうわ17ねん、おとうとはしょうわ19ねんのうまれ。ちちはぎんこういんで、なにかあったときにかけつけられるようにぎんこうのかんりなどもまかされていました。はははくうしゅうをさけて、うしのにぐるまでひとあしさきにいもうととおとうととならへ。じっかがならにあったので、そこをたよりにいっときひなんしていたのです。わたしはちちとおじふうふといっしょにぞうへいきょくのそばにたっていたいえでくらしていました。がっこうもあり、まだにちじょうがのこっていたので、こどもながらにそれがあたりまえだとおもっていたんでしょう。さびしいとか、ふあんだとか、そういうかんじょうはあまりなかったようにおもいます。

くうしゅうがほんかくかしてくるとぼうくうごうにひなんするひび。あるあさ、がっこうへむかうとちゅう、みちばたにたおれていたひとをみて、「あれ、しんでるんや」といわれたのをおぼえています。ばくふうでいえがとばされ、そこからとびでてたおれたまま、うごかなくなったひとでした。とてもこわくてもうみれませんでした。

うめだでのくうしゅうのあと、にげてくるひとびとのすがたがいんしょうにのこっています。あるじょせいが、おひつのおけをかかえてはしっていたこうけいが、いまもきおくのなかにせんめいにあります。なぜだかわからないけれど、きっと、ちかくにあるものをとっさにてにしてにげたのでしょう。


やがて、かぞくそろってははのじっかでならのいこのふもとにそかいすることになりました。しょうがく3ねんから5ねんまでのあいだ、かいこべやをかりて、おやこ4にんでのせいかつ。せんそうととなりあわせのくらしのなか、がっこうせいかつもありました。ばすはなく、4ねんせいまではぶんきょうじょうではせんせいがひとりで、ぜんきょうかをおしえてくれました。5ねんせいからは1じかんかけてあるいてほんこうへとうこう。そんなせいかつをおくっていたので、「いまでも10きろはあるけるよ」とわらってはなせるほどです。

そかいせいかつちゅう、びー29がかたののそらをとんでいたのをみました。さーちらいとでてらしても、こうしゃほうのとどかないたかさ。おおさかにばくだんをおとしたあと、あまったばくだんはしこくにとうかされたともききました。

とうじは、ぐんかをにちじょうのようにうたっていました。おっとはしゅうせんじにちゅうがく1ねんで、ならのやなぎもとのひこうじょうけんせつのためにどろをはこぶさぎょうにかりだされていたとききます。てっきがていくうひこうするとふせるように、としどうされていたそうです。わたしもそかいさきでへいたいさんのいえのくさかりのてつだいをしていたのですが、それもまた、せんそうのいちぶだったのかもしれません。

6がつ7かのだいくうしゅうのときついに、いえもかぎょうのさかやもやけおちてしまいました。わたしが5ねんせいのころ、もどってきたときには、かんじょうせんがみえるほどまちがやけのはらになっていました。そのかん、ちちはいえがやけてしまったのでしょくばのぎんこうでねとまりしていました。ちちのじっかにはこめをつくらせていましたが、のうちかいかくでこさくにんにとちのけんりがうつり、それもうしなわれました。

そのご、あさひくのもりしょうじにすむことになり、そこでまたあたらしいせいかつがはじまりました。わたしはじょがくいんへとしんがくしました。

にちじょうできおくにあるのは、はいきゅうでもらった"やしこ"をぱんやにもっていき、ぱんとこうかんしてもらったことです。そのとき、はじめてぱんというものをたべたのをおぼえています。


このはなしをおうぼしようとおもったのは、がくどうそかいのことをでいさーびすではなしたとき、だれもしらなかったからです。ましてや、せんそうそのものをしらないひともいました。だからこそ、このきかいにしってもらいたいとおもったのです。


(よしおかさんのぶんしょうは、しゅざいさせていただきへんしゅうたんとうがまとめたものです)

疎開(学童疎開)
戦争の時に、子どもやお年寄りが安全のために家や学校から遠くの田舎など、安全な場所に引っ越すこと。

空襲
敵の飛行機が町や村に爆弾を落とすこと。一般の人々がケガをしたり、たくさんの人が亡くなった。

防空壕
敵の飛行機が来た時に、身を守るために入る地中に掘った穴。安全に避難できる場所と考えられていた。

蚕部屋
蚕という絹を作るための虫を育てる部屋。

分教場
遠くに住んでいる子どもたちが通えるように、本校から離れた土地に設置された小さな学校のこと。

B29
戦争中に日本の街を攻撃するために使われた、アメリカの巨大な飛行機(爆撃機)のこと。日本の東京や大阪などの大きな街にたくさんの爆弾を落としたり、広島と長崎に原子爆弾を落とした飛行機。

高射砲
敵の飛行機が来た時に打ち落とすための大きな銃。空を守るために作られた。

軍歌
お国のためや、兵隊さんを応援するために歌う歌。みんなで声を合わせて歌う。

やし粉
ヤシの木の実を粉にしたもの。

学童疎開
昭和19年ごろ、3・4・5・6年生の子どもたちが親戚の田舎や山奥のお寺など安全な場所に引っ越したこと。当時の大阪市では、約6万6千人の子どもたちが疎開した。

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