わたしの戦争体験集

わたしの戦争体験集

戦争の記憶を次世代に伝え、平和への想いを未来へつなげるために
組合員さんから寄稿いただいた、戦争体験談をご紹介します。

子ども心に怖かった傷痍軍人さんの姿

子ども心に怖かった傷痍軍人さんの姿

大阪市鶴見区 Mさん 72歳

子ども心に怖かった傷痍軍人さんの姿

私自身の『戦争の記憶』は 戦後15年くらい経った頃の鮮烈な記憶です。日本は少しずつ生活を立て直しつつある頃です。京都の鴨川の四条大橋を父母と渡っていたら、白い装束で胸に箱をぶら下げ、ある人は松葉杖で足が無く、ある人は袖がひらひらと腕が無い、眼帯をしてる人もいました。『あの人達は傷痍軍人さんで、戦地で戦い負傷して手足を失い、日本に帰ってきても働けないから生きるためにお乞食さんのように立って物乞いしてはる』と聞かされました。子ども心にその姿は怖かったです。



母から聞いた戦争体験の話をします。戦争中は内地(日本)に居る者は老人や女性や子どもで、男性は兵隊になり日本のために戦う決まりでした。

最初は勝っていた戦争も月日が経つと劣勢になり、でも国民は日本は勝つ以外無いと信じるしかなく、女性は銃後を守るとして敵が日本領土に攻めてきたら武器で抵抗できるよう訓練をしたそうです。武器は竹槍です。町内会の婦人部で空き地に集まって、鉢巻をして空に向かって竹槍を勇ましく突く稽古をします。こんなんで敵の戦闘機が落とせるん?でもそんな言葉は出せません。
もし爆弾が落ちたらとバケツに水をいれ火災を消す練習、バケツリレーの訓練もあります。
『贅沢は敵』という言葉は、兵隊さんが命がけで戦っているのだから女性は化粧ダメ、防空頭巾を被り、モンペを履きます。粗末な食事に文句も言えません。京都とは比較的爆弾を落とされなかったそうですが、夜になると明かりが漏れると爆撃機の標的になるという事で明かりを黒い布で覆い薄暗がりで生活していました。敵機が飛んでくると空襲警報が鳴り、みんな防空壕に入ります。警報が解除されるまで静かにうずくまります。

ウチの祖母は防空壕に隠れるのを嫌がり、母は姑をなだめて連れて行くのが大変だったと言いました。
食糧は無く、庭に芋を植え、芋の茎も食べます。母は着物を風呂敷に包み電車に乗って農家に行き、着物と引き換えにわずかな米や野菜を交換してもらったと言います。これは戦後しばらく続きます。
鍋や釜など金属はすべて供出しました。みんな戦争に疲れ果てていましたが、終戦の日、ラジオから聞こえてくる玉音放送(天皇陛下が戦争に負けたと国民に放送された)を聴いたとき、戦争が終わった安堵とこれからの生活の不安がいっぱいで涙が出たといいました。
祖母はアメリカの進駐軍に殺されるとパニックになり、母はそんな事は無いと言い切るしかありませんでした。

父は財産の株券がただの紙切れになってしまったと落胆しました。

私が中学生のころ、社会科と国語の先生から授業中に授業を中断して、よく戦争に兵士として戦地で戦った話を聞きました。ジャングルの中を行軍した話。日本軍は食糧を現地調達して苦労してたのに、アメリカは飛行機から缶詰など食糧や武器など輸送して部隊に供給していて戦争が長引けば勝ち目はないと内心感じていたそうです。

私は、普通の父であり息子である家族や友人を愛する人が、なぜ兵士になったら人を殺せるのか、ずーっと不思議でした。
テレビ番組でPTSDという精神疾患、ナチスなどの洗脳の脅威を観ました。洗脳は怖い。先日は日本在住のイスラエル人で、元軍人で現在は活動家の講演を聴き、平和のありがたさが身に染みました。
戦後80年、これからも、もっともっと平和が続きますように。


こどもごころにこわかったしょういぐんじんさんのすがた

おおさかしつるみく Mさん 72さい

わたしじしんの『せんそうのきおく』は せんご15ねんくらいたったころのせんれつなきおくです。にほんはすこしずつせいかつをたてなおしつつあるころです。きょうとのかもがわのしじょうおおはしをふぼとわたっていたら、しろいしょうぞくでむねにはこをぶらさげ、あるひとはまつばづえであしがなく、あるひとはそでがひらひらとうでがない、がんたいをしてるひともいました。『あのひとたちはしょういぐんじんさんで、せんちでたたかいふしょうしててあしをうしない、にほんにかえってきてもはたらけないからいきるためにおこじきさんのようにたってものごいしてはる』ときかされました。こどもごころにそのすがたはこわかったです。

ははからきいたせんそうたいけんのはなしをします。せんそうちゅうはないち(にほん)にいるものはろうじんやじょせいやこどもで、だんせいはへいたいになりにほんのためにたたかうきまりでした。

さいしょはかっていたせんそうもつきひがたつとれっせいになり、でもこくみんはにほんはかついがいないとしんじるしかなく、じょせいはじゅうごをまもるとしててきがにほんりょうどにせめてきたらぶきでていこうできるようくんれんをしたそうです。ぶきはたけやりです。ちょうないかいのふじんぶであきちにあつまって、はちまきをしてそらにむかってたけやりをいさましくつくけいこをします。こんなんでてきのせんとうきがおとせるん?でもそんなことばはだせません。
もしばくだんがおちたらとばけつにみずをいれかさいをけすれんしゅう、ばけつりれーのくんれんもあります。『ぜいたくはてき』ということばは、へいたいさんがいのちがけでたたかっているのだからじょせいはけしょうだめ、ぼうくうずきんをかぶり、もんぺをはきます。そまつなしょくじにもんくもいえません。きょうとはひかくてきばくだんをおとされなかったそうですが、よるになるとあかりがもれるとばくげききのひょうてきになるということであかりをくろいぬのでおおいうすぐらがりでせいかつしていました。てっきがとんでくるとくうしゅうけいほうがなり、みんなぼうくうごうにはいります。けいほうがかいじょされるまでしずかにうずくまります。
うちのそぼはぼうくうごうにかくれるのをいやがり、はははしゅうとめをなだめてつれていくのがたいへんだったといいました。

しょくりょうはなく、にわにいもをうえ、いものくきもたべます。はははきものをふろしきにつつみでんしゃにのってのうかにいき、きものとひきかえにわずかなこめややさいをこうかんしてもらったといいます。これはせんごしばらくつづきます。
なべやかまなどきんぞくはすべてきょうしゅつしました。みんなせんそうにつかれはてていましたが、しゅうせんのひ、らじおからきこえてくるぎょくおんほうそう(てんのうへいかがせんそうにまけたとこくみんにほうそうされた)をきいたとき、せんそうがおわったあんどとこれからのせいかつのふあんがいっぱいでなみだがでたといいました。
そぼはあめりかのしんちゅうぐんにころされるとぱにっくになり、はははそんなことはないといいきるしかありませんでした。

ちちはざいさんのかぶけんがただのかみきれになってしまったとらくたんしました。

わたしがちゅうがくせいのころ、しゃかいかとこくごのせんせいからじゅぎょうちゅうにじゅぎょうをちゅうだんして、よくせんそうにへいしとしてせんちでたたかったはなしをききました。じゃんぐるのなかをこうぐんしたはなし。にほんぐんはしょくりょうをげんちちょうたつしてくろうしてたのに、あめりかはひこうきからかんづめなどしょくりょうやぶきなどゆそうしてぶたいにきょうきゅうしていてせんそうがながびけばかちめはないとうちしんかんじていたそうです。

わたしは、ふつうのちちでありむすこであるかぞくやゆうじんをあいするひとが、なぜへいしになったらひとをころせるのか、ずーっとふしぎでした。
てれびばんぐみでぴーてぃーえすでぃーというせいしんしっかん、なちすなどのせんのうのきょういをみました。せんのうはこわい。せんじつはにほんざいじゅうのいすらえるじんで、もとぐんじんでげんざいはかつどうかのこうえんをきき、へいわのありがたさがみにしみました。

せんご80ねん、これからも、もっともっとへいわがつづきますように。


傷痍軍人
戦争でケガを負ったり、身体の一部を失った兵隊さんのこと。戦後の混乱期には、白衣を着用して街頭で募金を求める傷痍軍人の姿も見られた。

銃後
「銃」は、兵隊さんが持っている武器。その「後(うしろ)」という意味で、戦争には行かないけれど、戦争のために一生懸命に働いている人たちのこと。

防空頭巾
空からの攻撃のときの落下物から頭を守るためにかぶる木綿布の帽子。太平洋戦争末期の日本で使われた。

モンペ
昔の日本の女の人や子どもたちが着ていた、ゆったりした布のズボンのようなもの。戦争中の女性は作業着として着用していた。

空襲警報
空から敵の飛行機が来るかもしれない時に町の人に知らせるサイレン音。聞いた人は、安全な場所に避難したり、身を守ったりした。

防空壕
敵の飛行機が来た時に、身を守るために入る地中に掘った穴。安全に避難できる場所と考えられていた。

玉音放送
1945年8月15日、日本の国民みんなに、戦争が終わったことを伝えるために、天皇陛下がラジオで話をした放送のこと。「玉音」とは天皇陛下の声のことを、ていねいに言った言葉。

進駐軍
日本が戦争に負けた後、「もう二度と日本が戦争を起こさないように」という目的で、アメリカなどの国から来た軍隊のこと。進駐軍の施設は、大阪の淀屋橋周辺などにも置かれた。

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