

戦争の記憶を次世代に伝え、平和への想いを未来へつなげるために
組合員さんから寄稿いただいた、戦争体験談をご紹介します。
寝屋川市 匿名希望 93歳

私は昭和7年生まれの93歳です。
生まれも育ちも現在と同じ寝屋川市ですので、もちろん大阪市内の大空襲の体験はありませんが、当時、私なりに感じた事柄を皆様に聞いて頂こうと思います。
一番大変だった事は食べ物でした。当時、各家庭には子どもが4~5人位の大家族で親は大変でした。親は空腹でも子ども達に食べさせてくれました。
戦争が始まったのが私は小学4年の時でした。配給制のわずかなお米に畑で採れた大根、じゃがいも、菜っ葉、野草すべてをきざんで量を増やし、イナゴ(美味しかった)やコオロギ等も、ほうらく(土鍋の様なフライパン)で炒って配給のうすめた醤油をかけて食べました。
小学校でのお昼ごはんは戦地の兵隊さんの事を思って教室の中ではなく運動場で、夏の暑さ、冬の寒さに関係なく、日の丸弁当(ごはんに梅干し)おかずはなく梅1つだけのお茶もないお弁当を食べました。大根やじゃがいもはおかずではなくごはんと一緒に炊いて量増しにしていたので、白いごはんの日の丸弁当ではなく、薄茶色いごはんでした。
小学校で、ノートは紙が悪く消しゴムで消したらボロボロになる粗末な物でした。消しゴムもなかなか消えず小さくなるまで使っていました。又、靴もボロボロで布でつくろった物を履いていました。
皆がそうだったので、別に恥ずかしくもなく、あまり気にもなりませんでした。当時の通学には母の着物で作った、ひっぱりともんぺ。それを決戦服と名付けて着ていた。男子は裾の細いズボンにゲートルを巻き、上は軍服を着ていた。
寝具は木綿のせんべい布団で毛布等もなく、冬は辛かった。
6年生の時、私達は仁和寺町の工場へ学徒動員で働きに行った。工場では機械を使い飛行機のプロペラの所に使うベアリングを入れる容器を作っていると聞いてました。
敵の飛行機が来ると空襲警報のサイレンが始めはウーウーとゆっくり、各軍需工場からサイレンが鳴り、近づくと激しくウーウーウーと鳴ってくる。それが鳴ると工場でも家庭でも防空壕に入る。夜中に眠いのに起こされて入る、辛い事でした。
ここでは話も出来ず、黙って身をひそめていた。
近所の主婦が朝、顔を合わせれば食事の話「あれをこうすれば食べれるよ」との話ばかりだった。町内の子どもがあまりのひもじさに、他人の家に盗みに入ったり食べ物を見れば取り合う場面もあちこちで見られた。
小麦粉を挽いてもらいに粉屋へ行くのは子どもの仕事で、粉屋の店主は子ども相手なのでなかなか挽いてもらえずやっと挽いてもらったら、持参した小麦の量より明らかに少ない粉の量であった。店主は掠めていたらしく他の場所へ売っていたらしい。
学校の先生が「何事も戦地兵隊さんの事を思って我慢しましょう。この戦争は必ず日本が勝つ」と言ったけど…。
4年間も続いた大東亜戦争がやっと終わり、私は叔父の世話で薬品会社へ入社しました。
当時の給料は恥かしい程(3000円~4000円)でそれに物価高でナイロンの出始めで、ナイロン風呂敷1枚が1000円(それをバッグの様に持つのが流行)、ストッキング1枚も1000円、スラックス1着が2000円だった事を覚えています。
食べる工夫
・さつまいものつる、茎 ・ヨモギ、つくし ・エンドウ豆のさや
・アザミはごぼうの代わり ・ノビル、ワケギの酢みそ合え ・ニマイ貝
・タニシは美味しかった
・一銭洋食〔メリケン粉を薄く焼くペラペラのお焼き(ネギ、紅しょうが)〕
・だんご汁〔メリケン粉に米ぬかを量増しの為に混ぜて団子にする。ぬか臭くて美味しくなかった〕
小学校6年のお伊勢参り…竹の皮に包まれたごはんと漬物が硬い物だった。
小学校卒業後は、女子は2年の家政学校があったが授業らしい事もなく、仁和寺の堤防へ開墾へ行く、川の土手を利用、さつまいもの苗を植える。できた作物は先生の物になったらしい…
現在、物価の値上げ、米価格の高騰、色々な問題が出て来ている。値上げの不満なれば戦時中を思い出しだんご汁でも食べようと私は思う。
ウクライナとロシアの戦争、世界各地で紛争が絶えないが人々の苦しい生活は悲しく耐え難いものがあります。
一日も早く戦争のない平和な世界となる事を心から願っております。
ねやがわし とくめいきぼう 93さい
わたしはしょうわ7ねんうまれの93さいです。
うまれもそだちもげんざいとおなじねやがわしですので、もちろんおおさかしないのだいくうしゅうのたいけんはありませんが、とうじ、わたしなりにかんじたことがらをみなさまにきいていただこうとおもいます。
いちばんたいへんだったことはたべものでした。とうじ、かくかていにはこどもが4から5にんぐらいのだいかぞくでおやはたいへんでした。おやはくうふくでもこどもたちにたべさせてくれました。
せんそうがはじまったのがわたしはしょうがく4ねんのときでした。はいきゅうせいのわずかなおこめにはたけでとれただいこん、じゃがいも、なっぱ、やそうすべてをきざんでりょうをふやし、いなご(おいしかった)やこおろぎなども、ほうらく(どなべのようなふらいぱん)でいってはいきゅうのうすめたしょうゆをかけてたべました。
しょうがっこうでのおひるごはんはせんちのへいたいさんのことをおもってきょうしつのなかではなくうんどうじょうで、なつのあつさ、ふゆのさむさにかんけいなく、ひのまるべんとう(ごはんにうめぼし)おかずはなくうめ1つだけのおちゃもないおべんとうをたべました。だいこんやじゃがいもはおかずではなくごはんといっしょにたいてりょうましにしていたので、しろいごはんのひのまるべんとうではなく、うすちゃいろいごはんでした。
しょうがっこうで、のーとはかみがわるくけしごむでけしたらぼろぼろになるそまつなものでした。けしごむもなかなかきえずちいさくなるまでつかっていました。また、くつもぼろぼろでぬのでつくろったものをはいていました。
みながそうだったので、べつにはずかしくもなく、あまりきにもなりませんでした。とうじのつうがくにはははのきものでつくった、ひっぱりともんぺ。それをけっせんふくとなづけてきていた。だんしはすそのほそいずぼんにげーとるをまき、うえはぐんぷくをきていた。
しんぐはもめんのせんべいぶとんでもうふなどもなく、ふゆはつらかった。
6ねんせいのとき、わたしたちはにわじちょうのこうじょうへがくとどういんではたらきにいった。こうじょうではきかいをつかいひこうきのぷろぺらのところにつかうべありんぐをいれるようきをつくっているときいてました。
てきのひこうきがくるとくうしゅうけいほうのさいれんがはじめはうーうーとゆっくり、かくぐんじゅこうじょうからさいれんがなり、ちかづくとはげしくうーうーうーとなってくる。それがなるとこうじょうでもかていでもぼうくうごうにはいる。よなかにねむいのにおこされてはいる、つらいことでした。
ここでははなしもできず、だまってみをひそめていた。
きんじょのしゅふがあさ、かおをあわせればしょくじのはなし「あれをこうすればたべれるよ」とのはなしばかりだった。ちょうないのこどもがあまりのひもじさに、たにんのいえにぬすみにはいったりたべものをみればとりあうばめんもあちこちでみられた。
こむぎこをひいてもらいにこなやへいくのはこどものしごとで、こなやのてんしゅはこどもあいてなのでなかなかひいてもらえずやっとひいてもらったら、じさんしたこむぎのりょうよりあきらかにすくないこなのりょうであった。てんしゅはかすめていたらしくほかのばしょへうっていたらしい。
がっこうのせんせいが「なにごともせんちへいたいさんのことをおもってがまんしましょう。このせんそうはかならずにほんがかつ」といったけど…。
4ねんかんもつづいただいとうあせんそうがやっとおわり、わたしはおじのせわでやくひんがいしゃへにゅうしゃしました。
とうじのきゅうりょうははずかしいほど(3000えんから4000えん)でそれにぶっかだかでないろんのではじめで、ないろんふろしき1まいが1000えん(それをばっぐのようにもつのがりゅうこう)、すとっきんぐ1まいも1000えん、すらっくす1ちゃくが2000えんだったことをおぼえています。
たべるくふう
・さつまいものつる、くき ・よもぎ、つくし ・えんどうまめのさや
・あざみはごぼうのかわり ・のびる、わけぎのすみそあえ ・にまいがい
・たにしはおいしかった
・いっせんようしょく〔めりけんこをうすくやくぺらぺらのおやき(ねぎ、べにしょうが)〕
・だんごじる〔めりけんこにこめぬかをりょうましのためにまぜてだんごにする。ぬかくさくておいしくなかった〕
しょうがっこう6ねんのおいせまいり…たけのかわにつつまれたごはんとつけものがかたいものだった。
しょうがっこうそつぎょうごは、じょしは2ねんのかせいがっこうがあったがじゅぎょうらしいじぶつなく、にわじちょうのていぼうへかいこんへいく、かわのどてをりよう、さつまものなえをうえる。できたさくもつはせんせいのものになったらしい…。
げんざい、ぶっかのねあげ、こめかかくのこうとう、いろいろなもんだいがでてきている。ねあげのふまんなればせんじちゅうをおもいだしだんごじるでもたべようとわたしはおもう。
うくらいなとろしあのせんそう、せかいかくちでふんそうがたえないがひとびとのくるしいせいかつはかなしくたえがたいものがあります。
いちにちもはやくせんそうのないへいわなせかいとなることをこころからねがっております。
・大阪市内の大空襲
アメリカ軍が1945年3月13日深夜から翌日にかけて大阪市にたくさんの爆弾を投下。その後も8月14日までに計8回の大空襲があった。これらの空襲で1万人以上の一般市民が亡くなったと言われている。
・配給制
戦争で物資不足だったので、食べものや服などを公平に家族の人数にあわせて配る仕組み。ただ量には限りがあり、十分な量をもらえないこともあった。
・ひっぱりともんぺ
昔の日本の女の人や子どもたちが着ていた、シャツとゆったりした布のズボンのようなもの。戦争中の女性は作業着として着用していた。
・ゲートル
兵隊さんが長い時間移動する時に足の疲れを少なくしたり、戦闘中にケガを防ぐために足に巻いていたもの。
・せんべい布団
綿の少ない、薄くて粗末な布団。
・学徒動員
現在でいう中学生たちが、学校に行かず、軍の工場で武器の部品を作っていた。また、食糧が不足していたため畑仕事などもした。
・空襲警報
空から敵の飛行機が来るかもしれない時に町の人に知らせるサイレン音。聞いた人は、安全な場所に避難したり、身を守ったりした。
・軍需工場
戦争の時に使う銃や爆弾、また兵隊さんの服などを作る工場のこと。
・防空壕
敵の飛行機が来た時に、身を守るために入る地中に掘った穴。安全に避難できる場所と考えられていた。
・大東亜戦争
第二次世界大戦(アジア・太平洋戦争)という世界中の国が参加した戦争の一部で、日本はこの戦争を「大東亜戦争」と呼んでいた。
・メリケン粉
アメリカから輸入された小麦粉の呼び名として、アメリカン粉がなまってメリケン粉となったもの。
・家政学校
日常の衣食住・家計など、家庭生活を学ぶ学校。
・開墾
山野を切り開いて農耕できる田畑にすること。