わたしの戦争体験集

わたしの戦争体験集

戦争の記憶を次世代に伝え、平和への想いを未来へつなげるために
組合員さんから寄稿いただいた、戦争体験談をご紹介します。

何があっても戦争は駄目

何があっても戦争は駄目

寝屋川市 Tさん 87歳

何があっても戦争は駄目

私は、小学校1年生の時、終戦を迎えた。物心がついた頃のわずかな間だったけれど、戦争の悲惨さや恐ろしさをこの目でみてきた。
戦争の恐ろしさは、戦場は勿論だが、国の隅々にまでにわたる。
私が生まれたのは、岡山県の小さな「村」。
当時、一番恐れられていたのは「招集令状」。いわゆる「赤紙」が来ることだった。
村の役員さんが「おめでとうございます」と差し出す「赤紙」を受け取った人は、すぐに出陣の準備をし、2、3日後には「出征兵士」として戦場に向かうのだ。村じゅうの人たちが集まり、軍歌を歌いながら送り出した。しかしほとんどその人たちの顔を見ることはなかった。かわりに白い箱に入った「遺骨」という変わり果てた姿で帰ってきた。
私の従兄も生後3か月の赤ん坊を残して出征し、2度と帰らなかった。
村人たちは「今度は、我が家では」と心休まる日はなかった。
また、村には学童疎開の子どもたちがいっぱい来ていた。空腹、寂しさに耐え、いつか我が家に帰れる日を待っていた。しかし、やがてその子たちにも父の死、兄の死が伝えられる時がきた。声を出して泣くことも我慢して、ただ流れる涙を手でおさえていた。
何があっても、戦争は駄目。
今年のお盆には、岡山へ帰ろう。そこで手を合わせよう。
私は生協の活動に参加する中で、先輩たちに戦争の恐ろしさをいっぱい教えてもらった。
今回の生協からの呼びかけはうれしかった。
87歳の私に、今できることは、これしかない。

なにがあってもせんそうはだめ

ねやがわし Tさん 87さい

わたしは、しょうがっこう1ねんせいのとき、しゅうせんをむかえた。ものごころがついたころのわずかなあいまだったけれど、せんそうのひさんさやおそろしさをこのめでみてきた。
せんそうのおそろしさは、せんじょうはもちろんだが、くにのすみずみにまでにわたる。

わたしがうまれたのは、おかやまけんのちいさな「むら」。
とうじ、いちばんおそれられていたのは「しょうしゅうれいじょう」。いわゆる「あかがみ」がくることだった。
むらのやくいんさんが「おめでとうございます」とさしだす「あかがみ」をうけとったひとは、すぐにしゅつじんのじゅんびをし、2、3にちごには「しゅっせいへいし」としてせんじょうにむかうのだ。むらじゅうのひとたちがあつまり、ぐんかをうたいながらおくりだした。
しかしほとんどそのひとたちのかおをみることはなかった。かわりにしろいはこにはいった「いこつ」というかわりはてたすがたでかえってきた。

わたしのいとこにもせいご3かげつのあかんぼうをのこしてしゅっせいし、にどとかえらなかった。
むらびとたちは「こんどは、わがやでは」とこころやすまるひはなかった。

また、むらにはがくどうそかいのこどもたちがいっぱいきていた。くうふく、さびしさにたえ、いつかわがやにかえれるひをまっていた。しかし、やがてそのこたちにもちちのし、あにのしがつたえられるときがきた。こえをだしてなくこともがまんして、ただながれるなみだをてでおさえていた。
なにがあっても、せんそうはだめ。
ことしのおぼんには、おかやまへかえろう。そこでてをあわせよう。
わたしはせいきょうのかつどうにさんかするなかで、せんぱいたちにせんそうのおそろしさをいっぱいおしえてもらった。
こんかいのせいきょうからのよびかけはうれしかった。
87さいのわたしに、いまできることは、これしかない。

招集令状(しょうしゅうれいじょう)(赤紙(あかがみ))
「兵隊さんに選ばれた」ことを知らせる手紙。直接、町の役場の方が家まで持ってくる。赤い紙に書かれていることが多かった。

出征兵士(しゅっせいへいし)
戦争に行くために出かける兵隊さんのこと。家族や町の人たちが見送ることもあった。

学童疎開(がくどうそかい)
昭和19年ごろ、3·4·5·6年生の子どもたちが親戚の田舎や山奥のお寺など安全な場所に引っ越したこと。当時の大阪市では、約6万6千人の子どもたちが疎開した。

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