

戦争の記憶を次世代に伝え、平和への想いを未来へつなげるために
組合員さんから寄稿いただいた、戦争体験談をご紹介します。
掲載年:2026年
四條畷市 Yさん 94歳
昭和16年12月8日開戦時、私は小学2年生で母と兄2人の4人暮らし。両親は大阪市都島区で断裁工場を営んでいました。ラジオの臨時ニュースで「西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」と伝えられ、翌日の新聞には「日本大勝利」を報道。街中で「日本が勝った」と盛大な提灯行列がありました。
長兄が出征した時も、婦人会は白いエプロンを着けて「行ってくるぞと勇ましく♪」と駅まで見送りました。けれど昭和18年に次兄が出征する頃には、見送りを禁じられ、兄は夜にひっそりと出ていくしかありませんでした。
家では食べるものがなくお米や大豆が一人一日一合の配給のみ。夜は灯火管制で電球に黒いカバーをかけ、明かりが外へ漏れないように。漏れると注意されるからです。一番ショックだったのは、大きな音のサイレンが鳴ると吠えるという理由で愛犬リルが連れて行かれたことです。不足する武器の金属を補うためでしょうか、いっしょに断裁機まで国に供出させられました。
昭和19年9月、小学6年で金沢の西本願寺へ集団疎開することになりました。子どもは約40人で私たちは遠足気分だったけれど、親は“根性の別れ”の覚悟だったそうです。金沢の生活は大阪で住んでいた私たちには厳しく、11月になると雪が靴にくっついて歩けないほどで、靴を持って裸足で走って登校することもありました。寒くて辛かったですが、「疎開の子だから」と優しくしてくれた金沢の人々の温かさに触れてなんとか乗り越えられました。
昭和20年3月始め、卒業式をするために6年生だけ学校に帰りました。しかしその後、高等女学校に通っていた6月7日の大空襲で、通っていた小学校は焼けて無くなってしまいました。住んでいた家も全焼し、跡形もありませんでした。避難していた母は父の位牌だけ抱きしめて逃げたそうです。
やがて8月15日に終戦を迎えましたが、私たちがそこから暮らしを立て直すまでは本当に大変でした。
家を焼かれて地方の借家に行ってから、家を買うために兄が一生懸命に働いてくれ、約3年で大阪に帰ることができました。海外に出仕していた長兄も、NHKラジオで舞鶴へ帰られる人の中にやっと名前が呼ばれたのもその頃です。家族が揃ったときに安心しました。
戦争は経験した者にしか分かりません。戦争はあかん。最初から勝てる戦争ではなかった。今は自由で何を言ってもいい時代だけど、昔はこうではありませんでした。今でも訴歌や悪いこともする人がいますね。読者の皆さんには自由に生きてほしいです。「平常心で前向きに」、日本が良い方向へ向いていることを願います。
(Yさんの文章は、取材させていただき編集担当がまとめたものです)
しじょうなわてし Yさん 94さい
しょうわ16ねん12がつ8にちかいせんじ、わたしはしょうがく2ねんせいでははとあに2りの4にんぐらし。りょうしんはおおさかしみやこじまくでだんさいこうじょうをいとなんでいました。らじおのりんじにゅーすで「にしたいへいようにおいてべいえいぐんとせんとうじょうたいにいれり」とつたえられ、よくじつのしんぶんには「にほんだいしょうり」をほうどう。まちなかで「にほんがかった」とせいただいたちょうちんぎょうれつがありました。
ちょうけいがしゅっせいしたときも、ふじんかいはしろいえぷろんをつけて「いってくるぞといさましく♪」とえきまでみおくりました。けれどしょうわ18ねんにじけいがしゅっせいするころには、みおくりをきんじられ、あにはよるにひっそりとでていくしかありませんでした。
いえではたべるものがなくおこめやだいずがひとりいちにちいちごうのはいきゅうのみ。よるはとうかかんせいででんきゅうにくろいかばーをかけ、あかりがそとへもれないように。もれるとちゅういされるからです。いちばんしょっくだったのは、おおきなおとのさいれんがなるとほえるというりゆうであいけんりるがつれていかれたことです。ふそくするぶきのきんぞくをおぎなうためでしょうか、いっしょにだんさいきまでくににきょうしゅつさせられました。
しょうわ19ねん9がつ、しょうがく6ねんでかなざわのにしほんがんじへしゅうだんそかいすることになりました。こどもはやく40にんでわたしたちはえんそくきぶんだったけれど、おやは“こんじょうのわかれ”のかくごだったそうです。かなざわのせいかつはおおさかですんでいたわたしたちにはきびしく、11がつになるとゆきがくつにくっついてあるけないほどで、くつをもってはだしではしってとうこうすることもありました。さむくてつらかったですが、「そかいのこだから」とやさしくしてくれたかなざわのひとびとのあたたかさにふれてなんとかのりこえられました。
しょうわ20ねん3がつはじめ、そつぎょうしきをするために6ねんせいだけがっこうにかえりました。しかしそのご、こうとうじょがっこうにかよっていた6がつ7にちのだいくうしゅうで、かよっていたしょうがっこうはやけてなくなってしまいました。すんでいたいえもぜんしょうし、ひななんしていたはははちちのいはいだけだきしめてにげたそうです。
やがて8がつ15にちにしゅうせんをむかえましたが、わたしたちがそこからくらしをたてなおすまではほんとうにたいへんでした。いえをやかれてちほうのしゃくやにいってから、いえをかうためにあにがいっしょうけんめいにはたらいてくれ、やく3ねんでおおさかにかえることができました。かいがいにしゅっしようしていたちょうけいも、えぬえいちけーらじおでまいづるへかえられるひとのなかにやっとなまえがよばれたのもそのころです。かぞくがそろったときにあんしんしました。
せんそうはけいけんしたものにしかわかりません。せんそうはあかん。さいしょからかてるせんそうではなかった。いまはじゆうでなにをいってもいいじだいだけど、むかしはこうではありませんでした。でもいまもわるぎゃるいこともするひとがいますね。どくしゃのみなさんにはじゆうにいきてほしいです。
「へいじょうしんでまえむきに」、にほんがよいほうへむいていることをねがいます。
(Yさんのぶんしょうは、しゅざいさせていただきへんしゅうたんとうがまとめたものです)
・提灯行列(ちょうちんぎょうれつ)
提灯を持って町を歩くお祝いの行事。戦争中には、日本軍の勝利を祝うために行われることがあり、多くの人が提灯を持って列を組んで行進した。
・配給(はいきゅう)
戦争で物資不足だったので、食べものや服などを公平に家族の人数にあわせて配る仕組み。ただ量には限りがあり、十分な量をもらえないこともあった。
・灯火管制(とうかかんせい)
夜に敵の飛行機から町が見えないように、家や建物の明かりを消したり、もれないように覆ったりすること。空襲への備えとして行われた。
・集団疎開(しゅうだんそかい)
空襲や火災から子どもたちを守るため、学校ごとに都会から農村や地方へ移り住むこと。
・根性の別れ(こんじょうのわかれ)(今生の別れ)
もう会えなくなるかもしれない、とても悲しいお別れのこと。
・大空襲(だいくうしゅう)
敵の飛行機が町や村に爆弾を落とすこと。一般の人々がケガをしたり、たくさんの人が亡くなった。
・位牌(いはい)
亡くなった人の名前などを書いて、お仏壇に置く木の板。
・終戦(しゅうせん)
戦争が終わること。1945(昭和20年)8月15日に天皇の放送によって戦争の終わりが国民に伝えられた。