

戦争の記憶を次世代に伝え、平和への想いを未来へつなげるために
組合員さんから寄稿いただいた、戦争体験談をご紹介します。
掲載年:2026年
大阪市阿倍野区 Aさん 90歳
私は8人兄姉弟妹の末っ子です。私が10歳の頃、16歳離れた一番上の兄が兵隊となってフィリピンに行くことになりました。
兄が第八連隊にいると聞いた姉と母は、出征する前に兄に会いたくて面会に行きました。私たちの他にも、どうしても家族に会いたくて、野宿までする人もいるほどでした。やっと会えたのが、戦地に出向く10日前のことでした。
そののち、戦地に赴く日も知らされず、兄の友人から聞いて知ることになりました。九州へ向かう電車に乗って、船でフィリピンに向かうということでした。
14歳離れた姉と母は、一生懸命に走って大阪駅まで行くと、向かい側のホームに兄を見ました。このときが、兄との最後の別れとなってしまいました。
兄は、いまだにどこで餓死したのか、撃たれて死んだのかもわかりません。あとから、遺骨でなく、位牌だけが返ってきました。フィリピンで戦死したのは27万人と言われてました。
2番目の兄は昭和14年ごろ支那事変(日中戦争)に出兵、遺骨だけが返ってきました。3番目の兄も支那事変に出兵、なんとか帰ってくることはできましたが、後に、「(当時)中国人に穴を掘らせて、そのあとにその中国人を入れて銃で撃った…」という、悲惨な話も聞きました。
戦争が激しく、大阪に空襲があるときは、私は母の実家の福井に疎開していました。地元で国民学校へは通えましたが、とにかく毎日食べる食糧がないので、ぬかや草(よもぎ)、タニシを食べて飢えをしのぎました。米はほとんど入っていない、おもゆも食べていました。
それから以後、14歳離れた姉とは(昭和14年(1939)から)、(今の大阪市阿倍野区)播磨町に住んでいました。姉は「(戦争をする)国が憎い」とよく話していました。「広島や長崎に原爆が落とされた、自分たち(国の偉い人たち?)がそこにいたらどうする」と言ってました。兄たちがもし生きていたら、人生はもっと変わっていたと思います。
今もウクライナで長く戦争があります。自分の大事な人、子供や孫を亡くすような戦争はしてはいけないと思います。戦争を知らない時代の人たちに、戦争がどれだけ悲惨か、どれだけ悲しいかを伝えておきたいと思います。今の時代の人は、平和がわからなくなってるのかもしれないと思います。
(Aさんの文章は、取材させていただき編集担当がまとめたものです)
おおさかしあべのく Aさん 90さい
わたしは8にんけいしていまいのすえっこです。わたしが10さいのころ、16さいはなれたいちばんうえのあにがへいたいとなってふぃりぴんにいくことになりました。
あにがだいはちれんたいにいるときいたあねとははは、しゅっせいするまえにあににあいたくてめんかいにいきました。わたしたちのほかにも、どうしてもかぞくにあいたくて、のじゅくまでするひともいるほどでした。やっとあえたのが、せんちにでむく10かまえのことでした。
そののち、せんちにおもむくひもしらされず、あにのゆうじんからきいてしることになりました。きゅうしゅうへむかうでんしゃにのって、ふねでふぃりぴんにむかうということでした。
14さいはなれたあねとははは、いっしょうけんめいにはしっておおさかえきまでいくと、むかいがわのほーむにあにをみました。このときが、あにとのさいごのわかれとなってしまいました。
あには、いまだにどこでがししたのか、うたれてしんだのかもわかりません。あとから、いこつでなく、いはいだけがかえってきました。ふぃりぴんでせんししたのは27まんにんといわれてました。
2ばんめのあにはしょうわ14ねんごろしなじへん(にっちゅうせんそう)にしゅっぺい、いこつだけがかえってきました。3ばんめのあにもしなじへんにしゅっぺい、なんとかかえってくることはできましたが、あとに、「(とうじ)ちゅうごくじんにあなをほらせて、そのあとにそのちゅうごくじんをいれてじゅうでうった…」という、ひさんなはなしもききました。
せんそうがはげしく、おおさかにくうしゅうがあるときは、わたしはははのじっかのふくいにそかいしていました。じもとでこくみんがっこうへはかよえましたが、とにかくまいにちたべるしょくりょうがないので、ぬかやくさ(よもぎ)、たにしをたべてうえをしのぎました。こめはほとんどはいっていない、おもゆもたべていました。
それからいご、14さいはなれたあねとは(しょうわ14ねん(1939)から)、(いまのおおさかしあべのく)はりまちょうにすんでいました。あねは「(せんそうをする)くにがにくい」とよくはなしていました。「ひろしまやながさきにげんばくがおとされた、じぶんたち(くにのえらいひとたち?)がそこにいたらどうする」といってました。あにたちがもしいきていたら、じんせいはもっとかわっていたとおもいます。
いまもうくらいなでながくせんそうがあります。じぶんのだいじなひと、こどもやまごをなくすようなせんそうはしてはいけないとおもいます。せんそうをしらないじだいのひとたちに、せんそうがどれだけひさんか、どれだけかなしいかをつたえておきたいとおもいます。いまのじだいのひとは、へいわがわからなくなってるのかもしれないとおもいます。
(Aさんのぶんしょうは、しゅざいさせていただきへんしゅうたんとうがまとめたものです)