

戦争の記憶を次世代に伝え、平和への想いを未来へつなげるために
組合員さんから寄稿いただいた、戦争体験談をご紹介します。
掲載年:2026年
枚方市 Kさん 90歳

昭和20年。私は京都で、国民学校の1年生から4年生までの時期を過ごし、そこで戦争を体験しました。「京都にいた」と言うと、周囲からは「京都で良かったね。あんたは良いわ、兄弟が居て」と言われることもあります。けれど、京都にいたからといって、決して安全で平穏だったわけではありません。子供心に焼き付いた、あの怖さや、つらい思いを知ってほしいと、今でも強く願っています。
日に日に激しくなる空襲。京都も例外ではなく、私たちは縁故疎開で三重県四日市市の隣の河原田町へと向かうことになりました。ある夜、空襲が始まり、私たちは丘の上へと逃れました。そこから見下ろした四日市の街は、炎の海と化していました。
特に、石油コンビナートが爆撃された光景は、一生忘れることができません。 爆発の衝撃と共に、夜空は巨大な火柱で覆われました。燃え盛る炎は街を焼き尽くし、さらには海へと燃え広がっていきました。海まで真っ赤になるくらい、そこら中が火の海になっている。人々が逃げまわる様子を、私はただ、丘の上から震えながら見つめることしかできませんでした。
そのあまりの恐ろしさは、90歳になった今でも、時に夢に出てくるほどです。あの燃え盛る四日市の夜は、まるでスライドのように今でも頭に焼きつき忘れられない・・・。私の記憶に、生涯消えない傷痕として残っています。
そして、8月のある日。ラジオから流れる天皇陛下の声、玉音放送を聞きました。終戦です。すぐに帰る支度をして、姉と妹と私の3人は再び故郷を目指しました。京都行きの汽車は満員、中に入っている人が窓を開けてくれて「子供やから」と窓から押し込んもらい、やっと京都のわが家にたどり着くことができました。
学校で歌を歌っていました。
「日本の兵隊さんはなぜ強い 大和魂もってるからだ そうだそうだよ私も僕も 兵隊さんには負けないで しっかり勉強いたしましょ」
あのような戦争は二度とあってはならない、心からそう思います。
(Kさんの文章は、取材させていただき編集担当がまとめたものです)
ひらかたし Kさん 90さい
しょうわ20ねん。わたしはきょうとで、こくみんがっこうの1ねんせいから4ねんせいまでのじきをすごし、そこでせんそうをたいけんしました。「きょうとにいた」というと、しゅういからは「きょうとでよかったね。あんたはよいわ、きょうだいがいて」といわれることもあります。けれど、きょうとにいたからといって、けっしてあんぜんでへいおんだったわけではありません。こどもごころにやきついた、あのこわさや、つらいおもいをしってほしいと、いまでもつよくねがっています。
ひにひにはげしくなるくうしゅう。きょうともれいがいではなく、わたしたちはえんこそかいでみえけんよっかいちしのとなりのかわらだちょうへとむかうことになりました。あるよる、くうしゅうがはじまり、わたしたちはおかのうえへとのがれました。そこからみおろしたよっかいちのまちは、ほのおのうみとかしていました。
とくに、せきゆこんびなーとがばくげきされたこうけいは、いっしょうわすれることができません。ばくはつのしょうげきとともに、よぞらはきょだいなひばしらでおおわれました。もえさかるほのおはまちをやきつくし、さらにはうみへともえひろがっていきました。うみまでまっかになるくらい、そこらじゅうがひのうみになっている。ひとびとがにげまわるようすを、わたしはただ、おかのうえからふるえながらみつめることしかできませんでした。
そのあまりのおそろしさは、90さいになったいまでも、ときにゆめにでてくるほどです。あのもえさかるよっかいちのよるは、まるですらいどのようにいまでもあたまにやきつきわすれられない・・・。わたしのきおくに、しょうがいきえないきずあととしてのこっています。
そして、8がつのあるひ。らじおからながれるてんのうへいかのこえ、ぎょくおんほうそうをききました。しゅうせんです。すぐにかえるしたくをして、あねといもうととわたしの3にんはふたたびこきょうをめざしました。きょうといきのきしゃはまんいん、なかにはいっているひとがまどをあけてくれて「こどもやから」とまどからおしこんもらい、やっときょうとのわがやにたどりつくことができました。
がっこうでうたをうたっていました。
「にほんのへいたいさんはなぜつよい やまとだましいもってるからだ そうだそうだよわたしもぼくも へいたいさんにはまけないで しっかりべんきょういたしましょ」
あのようなせんそうはにどとあってはならない、こころからそうおもいます。
(Kさんのぶんしょうは、しゅざいさせていただきへんしゅうたんとうがまとめたものです)