

戦争の記憶を次世代に伝え、平和への想いを未来へつなげるために
組合員さんから寄稿いただいた、戦争体験談をご紹介します。
掲載年:2026年
四條畷市 Sさん 95歳
太平洋戦争が始まった年、私は小学生でした。英語の教科書は途中から英語部分が塗りつぶされ、学校では軍事教育が当たり前になっていきました。朝練では素足で手には「なぎなた」を持ち、足の感覚がなくなるほど稽古をしました。しだいに食糧事情も悪化。校舎の横にあった空き地に芋や大豆を植え、農作業をしながら、役所の稲刈りなどの手伝いにも行きました。
当時私は、母と都島区東野田町の銀橋の側で暮らしていて、母は医師で眼科で働き、私は桜宮尋常小学校(現在の市立桜宮小学校)に通っていました。その後、電車一本で通えるという理由で寝屋川高等女学校へ進みました。
戦況が厳しくなると、学徒動員で枚方へ行き、高射砲の弾丸づくりをする毎日になりました。私の担当は弾丸の信管部分で、小さな部品を竹ひごのようなもので作る作業でした。昼食は空のお弁当箱を持っていき、順番に何か(うどんなどをグズグズに炊いた液体のようなもの)を入れてもらう形でしたが、今思い出しても、何を食べていたのかよく分からないようなものでした。
1945年3月13日、大阪市内で初めての大規模な空襲がありましたが、その時は少し離れていたので「空が赤いね」と見ているだけだったと思います。
そして6月7日の昼間、住んでいる都島区にもついに大規模な爆撃が襲いました。先生から「どうやら大阪市内に向かう電車が止まっているようだ」と聞き、枚方から家に戻ろうと駅へ向かいましたが、やはり電車は動いていませんでした。先生から「電車が動いていなければ戻っておいで」と言われていたため、いったん学校へ引き返すしかありませんでした。学校では、同じように戻ってきた友達と一緒に雑魚寝をして一夜を明かしました。翌日も電車は途中までしか動かず、古川橋あたりから歩くことになりました。自宅があった付近は焼け野原になっていて、焼け残った電柱だけが並ぶ光景でした。
母を探して回ると、桜宮小学校で救護活動をしている母にやっと会えました。母は空襲の時、3階建ての建物が揺れ、慌てて公園へ逃げて助かったそうです。ようやく顔を合わせた時、私たちは二人とも顔がすすけていました。
戦争で一番ショックだったのは、「行ってきます」と言って出た家が、跡形もなくなっていたことです。大事にしていた琴も焼け、自分の好きな本も一瞬で燃えてしまったのだと思うと、寂しさがこみ上げました。しかし空襲では、非戦闘員の私たちの家が焼き尽くされるだけではありませんでした。逃げ惑う私たちをグラマンが機銃照射で狙ってくるのです。このことだけは本当に許すことができません。今でも思い出すたび、憤りが込み上げます。
戦後も、ひもじい思いをしながらどうにかほそぼそと暮らし、歯を食いしばりながらもみんなに助けられて生きてきました。今は元気でこうやって話すこともでき感謝です。私の戦争体験の話のカケラが、どなたかのプラスになればと思います。
(Sさんの文章は、取材させていただき編集担当がまとめたものです)
しじょうなわてし Sさん 95さい
たいへいようせんそうがはじまったとし、わたしはしょうがくせいでした。えいごのきょうかしょはとちゅうからえいごぶぶんがぬりつぶされ、がっこうではぐんじきょういくがあたりまえになっていきました。あされんではすあしでてには「なぎなた」をもち、あしのかんかくがなくなるほどけいこをしました。しだいにしょくりょうじじょうもあっか。こうしゃのよこにあったあきちにいもやだいずをうえ、のうさぎょうをしながら、やくしょのいねかりなどのてつだいにもいきました。
とうじわたしは、ははとみやこじまくひがしのだちょうのぎんばしのがわでくらしていて、はははいしでがんかではたらき、わたしはさくらのみやじんじょうしょうがっこう(げんざいのしりつさくらのみやしょうがっこう)にかよっていました。そのご、でんしゃいっぽんでかよえるというりゆうでねやがわこうとうじょがっこうへすすみました。
せんきょうがきびしくなると、がくとどういんでひらかたへいき、こうしゃほうのだんがんづくりをするまいにちになりました。わたしのたんとうはだんがんのしんかんぶぶんで、ちいさなぶひんをたけひごのようなものでつくるさぎょうでした。ちゅうしょくはからのおべんとうばこをもっていき、じゅんばんになにか(うどんなどをぐずぐずにたいたえきたいのようなもの)をいれてもらうかたちでしたが、いまおもいだしても、なにをたべていたのかよくわからないようなものでした。
1945ねん3がつ13にち、おおさかしないではじめてのだいきぼなくうしゅうがありましたが、そのときはすこしはなれていたので「そらがあかいね」とみているだけだったとおもいます。
そして6がつ7にちのひるま、すんでいるみやこじまくにもついにだいきぼなばくげきがおそいました。せんせいから「どうやらおおさかしないにむかうでんしゃがとまっているようだ」ときき、ひらかたからいえにもどろうとえきへむかいましたが、やはりでんしゃはうごいていませんでした。せんせいから「でんしゃがうごいていなければもどっておいで」といわれていたため、いったんがっこうへひきかえすしかありませんでした。がっこうでは、おなじようにもどってきたともだちといっしょにざこねをしていちやをあかしました。よくじつもでんしゃはとちゅうまでしかうごかず、ふるかわばしあたりからあるくことになりました。じたくがあったふきんはやけのはらになっていて、やけのこったでんちゅうだけがならぶこうけいでした。
ははをさがしてまわると、さくらのみやしょうがっこうできゅうごかつどうをしているははにやっとあえました。はははくうしゅうのとき、3かいだてのたてものがゆれ、あわててこうえんへにげてたすかったそうです。ようやくかおをあわせたとき、わたしたちはふたりともかおがすすけていました。
せんそうでいちばんしょっくだったのは、「いってきます」といってでたいえが、あとかたもなくなっていたことです。だいじにしていたこともやけ、じぶんのすきなほんもいっしゅんでもえてしまったのだとおもうと、さびしさがこみあげました。しかしくうしゅうでは、ひせんとういんのわたしたちのいえがやきつくされるだけではありませんでした。にげまどうわたしたちをぐらまんがきじゅうしょうしゃでねらってくるのです。このことだけはほんとうにゆるすことができません。いまでもおもいだすたび、いきどおりがこみあげます。
せんごも、ひもじいおもいをしながらどうにかほそぼそとくらし、はをくいしばりながらもみんなにたすけられていきてきました。いまはげんきでこうやってはなすこともできかんしゃです。わたしのせんそうたいけんのはなしのかけらが、どなたかのぷらすになればとおもいます。
(Sさんのぶんしょうは、しゅざいさせていただきへんしゅうたんとうがまとめたものです)