わたしの戦争体験集

わたしの戦争体験集

戦争の記憶を次世代に伝え、平和への想いを未来へつなげるために
組合員さんから寄稿いただいた、戦争体験談をご紹介します。

父からの手紙

掲載年:2026年

大阪市住吉区 Tさん 80歳

昭和20年8月15日は終戦記念日。その時、母のお腹にいた私は今、80歳になった。父は陸軍兵として中国戦線で右腕を失くしていた。片腕で山を開墾し米や蜜柑を作り暮しをたてた。電気もない貧しい暮らしでトンネル工事の出稼ぎにも行き、私達5人の子どもを育ててくれた。優しくて、見知らぬ行商人を半年も住まわせるという生き仏のような人であった。
ところが、お酒が入るとまるで別人のようになり、物が飛んだり暴言を吐き、そんな父が怖くて震えていた。母はそんな時、決まって「父ちゃんはなんも悪かとじゃなかよ。切れた腕の先が痛かとよ」と父をかばった。

私の生まれつきの股関節の病気は終戦直後の医療状況や我が家の極貧もあり、高校を卒業し自分の力で治すべく医療の道へと鹿児島から大阪の学校へ進学し、奨学金とバイトで賄った。
看護師40年目の60歳の時のこと。毎年終戦記念日に「戦争体験の作文」を募集し、出版している会社があり応募を決めた。戦争については、片腕を失くしたこと以外は語らなかった父に「お父さんの戦場」を知りたいと勇気を出して手紙に書いた。意外にも承諾を得た。
分厚い一通の手紙が届いたのは1ヶ月後。母以外には誰にも語ることなく、封印して60年。初めて明かす父の戦場の真実。その手紙に私の体は凍りつき慄え涙が止まらなかった。それは史実としての戦争しか知らない私は、自分の父が体験した戦場の残虐さと昨日のことのように鮮明な記述に衝激を受けた。

-以下、父の手紙原文の一部-

昭和17年12月10日、鹿児島の部隊に入隊。翌年1月に中支で訓練開始。兵器の撃ち方などの訓練を受け、討伐に行った。初年兵の私は中国人捕虜の銃剣刺殺を上官に命じられた。まだ若い青年だった。手を合わせ、口で何かを求めているようでもあった。気合いもろとも突き刺せば血しぶきと共に男の体の中に豆腐を刺す如くめり込んで男は息絶えた。私は茫然自失、戦争の非常さ、人間が人間を殺すなど絶対あってはならないと思い知らされた。

二重人格のような理解できない父に育てられた幼少期。尊敬する父と嫌いな父の二重人格のような父に翻弄された60年。この真実を知り父の苦悩を深く理解し何も知らなかったことへの申し訳なさと、これ迄の幼少期に受けた心の傷が癒され、もつれていた糸が解けていくような思いでした。

追記
父の酒乱は、片腕の苦悩以上に、捕虜を殺めたこと、自分だけが生きていることへの罪悪感に苛なまれてのお酒だったこと。戦中に精神を患った人が多かったことを後で知る。

ちちからのてがみ

おおさかしすみよしく Tさん 80さい

しょうわ20ねん8がつ15にちはしゅうせんきねんび。そのとき、ははのおなかにいたわたしはいま、80さいになった。ちちはりくぐんへいとしてちゅうごくせんせんでみぎうでをなくしていた。かたうででやまをかいこんしこめやみかんをつくりくらしをたてた。でんきもないまずしいくらしでとんねるこうじのでかせぎにもいき、わたしたち5にんのこどもをそだててくれた。やさしくて、みしらぬぎょうしょうにんをはんとしもすまわせるといういきぼとけのようなひとであった。
ところが、おさけがはいるとまるでべつじんのようになり、ものがとんだりぼうげんをはき、そんなちちがこわくてふるえていた。はははそんなとき、きまって「とうちゃんはなんもわるかとじゃなかよ。きれたうでのさきがいたかとよ」とちちをかばった。

わたしのうまれつきのこかんせつのびょうきはしゅうせんちょくごのいりょうじょうきょうやわがやのごくひんもあり、こうこうをそつぎょうしじぶんのちからでなおすべくいりょうのみちへとかごしまからおおさかのがっこうへしんがくし、しょうがくきんとばいとでまかなった。
かんごし40ねんめの60さいのときのこと。まいとししゅうせんきねんびに「せんそうたいけんのさくぶん」をぼしゅうし、しゅっぱんしているかいしゃがありおうぼをきめた。せんそうについては、かたうでをなくしたこといがいはかたらなかったちちに「おとうさんのせんじょう」をしりたいとゆうきをだしててがみにかいた。いがいにもしょうだくをえた。
ぶあついいっつうのてがみがとどいたのは1かげつご。ははいがいにはだれにもかたることなく、ふういんして60ねん。はじめてあかすちちのせんじょうのしんじつ。そのてがみにわたしのからだはこおりつきふるえなみだがとまらなかった。それはしじつとしてのせんそうしかしらないわたしは、じぶんのちちがたいけんしたせんじょうのざんぎゃくさときのうのことのようにせんめいなきじゅつにしょうげきをうけた。

-いか、ちちのてがみげんぶんのいちぶ-

しょうわ17ねん12がつ10か、かごしまのぶたいににゅうたい。よくねん1がつにちゅうしでくんれんかいし。へいきのうちかたなどのくんれんをうけ、とうばつにいった。しょねんへいのわたしはちゅうごくじんほりょのじゅうけんしさつをじょうかんにめいじられた。まだわかいせいねんだった。てをあわせ、くちでなにかをもとめているようでもあった。きあいもろともつきさせばちしぶきとともにおとこのからだのなかにとうふをさすごとくめりこんでおとこはいきたえた。わたしはぼうぜんじしつ、せんそうのひじょうさ、にんげんがにんげんをころすなどぜったいあってはならないとおもいしらされた。

にじゅうじんかくのようなりかいできないちちにそだてられたようしょうき。そんけいするちちときらいなちちのにじゅうじんかくのようなちちにほんろうされた60ねん。このしんじつをしりちちのくのうをふかくりかいしなにもしらなかったことへのもうしわけなさと、これまでのようしょうきにうけたこころのきずがいやされ、もつれていたいとがとけていくようなおもいでした。

ついき
ちちのしゅらんは、かたうでのくのういじょうに、ほりょをあやめたこと、じぶんだけがいきていることへのざいあくかんにさいなまれてのおさけだったこと。せんちゅうにせいしんをわずらったひとがおおかったことをあとでしる。

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