

戦争の記憶を次世代に伝え、平和への想いを未来へつなげるために
組合員さんから寄稿いただいた、戦争体験談をご紹介します。
掲載年:2026年
京都府丹波市 Yさん 90歳(大阪市福島区 Yさん代筆)

昭和16年(1941年)私は国民学校に入学しました。晴れ着のワンピースは3年間だけ。母が古着で縫ってくれたモンペで通いました。先ず教育勅語を暗記すること。その年の12月8日太平洋戦争が勃発!
3年生になって食べる物も着る物も不自由になりました。「欲しがりません 勝つまでは」と我慢していました。片道6キロの道を腰に鋸などをぶら下げて荷車をひいて、かえの藁草履を持って赤井野まで通いました。先生たちがイナゴのだしで野菜の雑炊を炊いて下さりそれをお昼ご飯にしました。
山に行かない日は校庭の土を、鍬で耕してさつまいもやかぼちゃを植えました。野の草山の木の実など食べられる物は何でも食べました。
下りの汽車で白い箱の英霊を抱えた家族が降りて来ました。学校の裏山で行われたお葬式に参列しました。隣のおいちゃんに赤紙(召集令状)が来ました。お友達のお父さんやお兄さんにも。(私の父は先の戦争から帰ったばかりでした)家の前に「出征兵士の家」と書いた旗が立ち子どもたちは日の丸の小旗を振って石生駅で見送りました。
学校の裏山にもさつまいもを植えました。下肥の入った桶を二人で持って山を登ります。前と後のバランスがむずかしくひっくり返すこともたびたびありました。「おい、もっとうしろを上げんかい」偉そうに言いました。
校庭にチャーチル(英首相)ルーズベルト(米大統領)蒋介石(中華民国総統)の等身大の藁人形を立て「エイ ヤッ」と竹やりで突いていました。
先生が予科練や特攻隊に。お別れの会が講堂であり、おとこ先生は校長先生だけになりました。その講堂も間もなく床が剥がされ軍需工場になりました。「鉄砲の弾を作っている」と噂され、中を覗き、ひどく叱られて廊下に立たされました。
お寺に沖縄から学童疎開の子どもたちが300人ほど来ました。やっと這い這いできるくらいの赤ちゃんもいました。一番上の6年生の女の子は「先生」と呼ばれてみんなの面倒をみていました。東恩納(とおおんな)さんというその子が「沖縄から長崎まで千人以上乗った船が爆撃を受けて沈み、みんな死んだらしい」と泣きながら教えてくれました。
容赦なく敵のB29は低空飛行して来ます。空襲警報のサイレンがけたたましく鳴りその度に防空頭巾をかぶり目と耳を指でふさぎ芋畑に伏せたり防空壕に逃げ込んだりしました。白い服は上空から目立つのでお茶や草で染めました。夜は電灯に黒い布をかぶせて灯が外にもれないようにしました。
「今日正午に大事なラジオ放送があるので集まって下さい」といわれて村の辻に集まりました。天皇陛下の声を初めて聞きました。ガァガァと雑音がひどくて何が起こったのかわかりません。軍人さんは「戦争は終わった」と言われて「勝ったんやね?」と口々に聞きましたが返事はなく。軍人さんの涙を初めてみました。昭和20年(1945年)8月15日、日本は戦争に負けました。
もうすぐ2学期という日、5年生が登校するよういわれました。「はい。墨をすって、力を入れて濃くする」机の上には教科書が山積み。「1ページ5行目から終わりまで墨をぬる」「絵もぬりつぶす」大切にしていた教科書です。先生の厳しい顔にみんな泣きながら塗りつぶしました。
芋畑の校庭を全校生徒でならし、初めての運動会です。5、6年生の女子で踊りました。白いブラウスを揃えるのが大変でした。紺のブルマーは自分たちで縫いました。「天然の美」♫そらにさえずるとりのこえ♫軍歌ばかり唄っていた私たちには歌詞もメロディも夢の国にいるようでした。踊り終えて校庭の隅で泣きました。「うれしいうれしい」って6年生の秋のことでした。
(パルコープの組合員さんの知人である、Yさんが手作りした絵本を元に寄稿してくださいました)
きょうとふたんばし Yさん 90さい(おおさかしふくしまく Yさん だいひつ)
しょうわ16ねん(1941ねん)わたしはこくみんがっこうににゅうがくしました。はれぎのわんぴーすは3ねんかんだけ。ははがふるぎでぬってくれたもんぺでかよいました。まずきょういくちょくごをあんきすること。そのとしの12がつ8にちたいへいようせんそうがぼっぱつ!
3ねんせいになってたべるものもきるものもふじゆうになりました。「ほしがりません かつまでは」とがまんしていました。かたみち6きろのみちをこしにのこぎりなどをぶらさげてにぐるまをひいて、かえのわらぞうりをもってあかいのまでかよいました。せんせいたちがいなごのだしでやさいのぞうすいをたいてくださりそれをおひるごはんにしました。
やまにいかないひはこうていのつちを、くわでたがやしてさつまいもやかぼちゃをうえました。ののくさやまのきのみなどたべられるものはなんでもたべました。
くだりのきしゃでしろいはこのえいれいをかかえたかぞくがおりてきました。がっこうのうらやまでおこなわれたおそうしきにさんれつしました。となりのおいちゃんにあかがみ(しょうしゅうれいじょう)がきました。おともだちのおとうさんやおにいさんにも。(わたしのちちはさきのせんそうからかえったばかりでした)いえのまえに「しゅっせいへいしのいえ」とかいたはたがたちこどもたちはひのまるのこばたをふっていそうえきでみおくりました。
がっこうのうらやまにもさつまいもをうえました。しもごえのはいったおけをふたりでもってやまをのぼります。まえとあとのばらんすがむずかしくひっくりかえすこともたびたびありました。「おい、もっとうしろをあげんかい」えらそうにいいました。
こうていにちゃーちる(いぎりすしゅしょう)るーずべると(あめりかだいとうりょう)しょうかいせき(ちゅうかみんこくそうとう)のとうしんだいのわらにんぎょうをたて「えい やっ」とたけやりでついていました。
せんせいがよかれんやとっこうたいに。おわかれのかいがこうどうであり、おとこせんせいはこうちょうせんせいだけになりました。そのこうどうもまもなくゆかがはがされぐんじゅこうじょうになりました。「てっぽうのたまをつくっている」とうわさされ、なかをのぞき、ひどくしかられてろうかにたたされました。
おてらにおきなわからがくどうそかいのこどもたちが300にんほどきました。やっとはいはいできるくらいのあかちゃんもいました。いちばんうえの6ねんせいのおんなのこは「せんせい」とよばれてみんなのめんどうをみていました。とおおんなさんというそのこが「おきなわからながさきまでせんにんいじょうのったふねがばくげきをうけてしずみ、みんなしんだらしい」となきながらおしえてくれました。
ようしゃなくてきのびー29はていくうひこうしてきます。くうしゅうけいほうのさいれんがけたたましくなりそのたびにぼうくうずきんをかぶりめとみみをゆびでふさぎいもばたけにふせたりぼうくうごうににげこんだりしました。しろいふくはじょうくうからめだつのでおちゃやくさでそめました。よるはでんとうにくろいぬのをかぶせてあかりがそとにもれないようにしました。
「きょうしょうごにだいじならじおほうそうがあるのであつまってください」といわれてむらのつじにあつまりました。てんのうへいかのこえをはじめてききました。がぁがぁとざつおんがひどくてなにがおこったのかわかりません。ぐんじんさんは「せんそうはおわった」といわれて「かったんやね?」とくちぐちにききましたがへんじはなく。ぐんじんさんのなみだをはじめてみました。しょうわ20ねん(1945ねん)8がつ15にち、にほんはせんそうにまけました。
もうすぐ2がっきというひ、5ねんせいがとうこうするよういわれました。「はい。すみをすって、ちからをいれてこくする」つくえのうえにはきょうかしょがやまづみ。「1ぺーじ5ぎょうめからおわりまですみをぬる」「えもぬりつぶす」たいせつにしていたきょうかしょです。せんせいのきびしいかおにみんななきながらぬりつぶしました。
いもばたけのこうていをぜんこうせいとでならし、はじめてのうんどうかいです。5、6ねんせいのじょしでおどりました。しろいぶらうすをそろえるのがたいへんでした。こんのぶるまーはじぶんたちでぬいました。「てんねんのび」♫そらにさえずるとりのこえ♫ぐんかばかりうたっていたわたしたちにはかしもめろでぃもゆめのくににいるようでした。おどりおえてこうていのすみでなきました。「うれしいうれしい」って6ねんせいのあきのことでした。
(ぱるこーぷのくみあいいんさんのちじんである、Yさんがてづくりしたえほんをもとにきこうしてくださいました)