

戦争の記憶を次世代に伝え、平和への想いを未来へつなげるために
組合員さんから寄稿いただいた、戦争体験談をご紹介します。
掲載年:2026年
大阪市此花区 Mさん 76歳
90歳の知人から若い方へ役立ててもらえればと、戦争体験を聞きました。まとめましたのでお読みいただけたらと思います。
夜寝る時間です。一人の子が熱を出し、私と友達がお医者さんを呼びに行くことになりました。
稲が黄色く色づく頃、源氏ボタルが二人の間を照らすかのようについてきてくれたのです。
ホタルの姿、綺麗でした。
ある日、男の子達5,6人が、宿坊から脱出しました。湖西線の線路の上を、大阪のほうに向かって歩いていたのです。
親が恋しい、我慢を超えている。無理もない事です。でも悲しいかな、お金もないし、お腹もすいてくる。とうとう見つけられて連れ戻されました。
今津の駐屯地から、兵隊さんが馬に乗ってきてくれたことがありました。まだ20歳にもなっていない若い兵隊さん達です。みんな特攻隊員でした。
明日、鹿児島の飛行場に行き、死ぬことを覚悟して飛び立つのです。その前に、疎開している4年生の私たちに「がんばれよ!」と励ましに来てくれたのです。そして馬に乗って帰っていきました。
その姿、今でも忘れることができません。
今日本は、防衛も大事だけど、戦争だけは二度としてはならない。絶対反対です。平和な日本がいつまでも続きますように!
学童疎開って知っていますか?
私は88歳になりました。私が小学生の頃、日本はアメリカと戦争をしていました。戦争はだんだん厳しくなり、飛行機が飛んできて、爆弾が落とされ街が焼かれてたくさんの人が犠牲になりました。
大人の人たちは、子供たちの命を守るため、安全な田舎に避難する「学童疎開」をさせることにしました。そして小学生の私たちは、親から離れて知らない土地で生活をすることになりました。
私は1935年大阪の曽根崎新地で生まれました。その頃は、家の前には、まだ荷馬車や市電が通っていました。
国民学校(今の小学校)の10歳(4年生)の時、家族全員に見送られて、クラスのお友達と楽しい遠足のように、大阪駅から電車で出発、滋賀県の安曇川(あどかわ)町にあるお寺に避難。
そこで1年半の疎開生活を送りました。
朝はお経から始まり、国民学校へ行く通学路は田んぼ道、小川にはメダカが泳ぎ、春夏秋冬大阪では見られないのどかな風景が広がっていました。でも冬の寒さは格別。ひび割れやしもやけがつぶれて血が出てとても痛かった。食べるのもお米はなく、麦やコウリャン。お腹がすき、畑に植わっている枝豆を取って生で食べたこともありました。
面会の日、両親や弟が来てくれて本当に嬉しかった。食べ物がないときに、お母さんが探し回って材料を集め、ドーナツを作って持ってきてくれたのです。みんな大喜びで一緒に食べました。最高においしかった。
面会の時はうれしかったけど、あくる日は帰ってしまう。軍服姿のお父さん、もんぺ姿のお母さん、小さな弟たち、うしろ姿を見送るときは、本当に悲しく、さびしくつらかった。
おおさかしこのはなく Mさん 76さい
90さいのちじんからわかいかたへやくだててもらえればと、せんそうたいけんをききました。まとめましたのでおよみいただけたらとおもいます。
よるねるじかんです。ひとりのこがねつをだし、わたしとともだちがおいしゃさんをよびにいくことになりました。
いねがきいろくいろづくころ、げんじぼたるがふたりのあいだをてらすかのようについてきてくれたのです。
ほたるのすがた、きれいでした。
あるひ、おとこのこたち5,6にんが、しゅくぼうからだっしゅつしました。こせいせんのせんろのうえを、おおさかのほうにむかってあるいていたのです。
おやがこいしい、がまんをこえている。むりもないことです。でもかなしいかな、おかねもないし、おなかもすいてくる。とうとうみつけられてつれもどされました。
いまづのちゅうとんちから、へいたいさんがうまにのってきてくれたことがありました。まだ20さいにもなっていないわかいへいたいさんたちです。みんなとっこうたいいんでした。
あす、かごしまのひこうじょうにいき、しぬことをかくごしてとびたつのです。そのまえに、そかいしている4ねんせいのわたしたちに「がんばれよ!」とはげましにきてくれたのです。そしてうまにのってかえっていきました。
そのすがた、いまでもわすれることができません。
いまにほんは、ぼうえいもだいじだけど、せんそうだけはにどとしてはならない。ぜったいはんたいです。へいわなにほんがいつまでもつづきますように!
がくどうそかいってしっていますか?
わたしは88さいになりました。わたしがしょうがくせいのころ、にほんはあめりかとせんそうをしていました。せんそうはだんだんきびしくなり、ひこうきがとんできて、ばくだんがおとされまちがやかれてたくさんのひとがぎせいになりました。
おとなのひとたちは、こどもたちのいのちをまもるため、あんぜんないなかにひなんする「がくどうそかい」をさせることにしました。そしてしょうがくせいのわたしたちは、おやからはなれてしらないとちでせいかつをすることになりました。
わたしは1935ねんおおさかのそねざきしんちでうまれました。そのころは、いえのまえには、まだにばしゃやしでんがかよっていました。
こくみんがっこう(いまのしょうがっこう)の10さい(4ねんせい)のとき、かぞくぜんいんにみおくられて、くらすのおともだちとたのしいえんそくのように、おおさかえきからでんしゃでしゅっぱつ、しがけんのあどかわちょうにあるおてらにひなん。
そこで1ねんはんのそかいせいかつをおくりました。
あさはおきょうからはじまり、こくみんがっこうへいくつうがくろはたんぼみち、おがわにはめだかがおよぎ、はるなつあきふゆおおさかではみられないのどかなふうけいがひろがっていました。でもふゆのさむさはかくべつ。ひびわれやしもやけがつぶれてちがでてとてもいたかった。たべるのもおこめはなく、むぎやこうりゃん。おなかがすき、はたけにうわっているえだまめをとってなまでたべたこともありました。
めんかいのひ、りょうしんやおとうとがきてくれてほんとうにうれしかった。たべものがないときに、おかあさんがさがしまわってざいりょうをあつめ、どーなつをつくってもってきてくれたのです。みんなおおよろこびでいっしょにたべました。さいこうにおいしかった。
めんかいのときはうれしかったけど、あくるひはかえってしまう。ぐんぷくすがたのおとうさん、もんぺすがたのおかあさん、ちいさなおとうとたち、うしろすがたをみおくるときは、ほんとうにかなしく、さびしくつらかった。