わたしの戦争体験集

わたしの戦争体験集

戦争の記憶を次世代に伝え、平和への想いを未来へつなげるために
組合員さんから寄稿いただいた、戦争体験談をご紹介します。

第二次世界大戦後 父と祖母からの話

掲載年:2026年

枚方市 Iさん 59歳

私の父と祖母は、祖母の離婚後、京都から守口に移住し祖母の手一つで生活を送ってました。
第二次世界大戦後終盤(太平洋戦争)、住んでいた近くの龍田市場にB29から焼夷弾が無数に落下して大火事になりました。投下され、地面や建物に触れるとガシャ~ンと何とも言えない大きい音が無数に聞こえた後すぐに炎が発生し、建物を焼き付近に延焼を及ぼします。防空壕に避難する途中で、公設市場でも有り日常的に買物にも行っていた龍田市場の屋根にも多数の焼夷弾が落ち、なんとも言えない紅蓮の色の焔の熱さ、鮮やかさだけが「大人になっても忘れない」と父が言い、祖母は空襲が終わり自宅に戻る途上で真っ黒に焼けた市場跡で、被災した人が、集まって途方にくれた人々が、泣き叫んでいた様子が忘れられないと言っていたことを龍田市場跡を自転車に乗って父と通る都度思い出しました。

次に、小学校になり、大阪市旭区に有るボーイスカウト大阪 122 団に入団して、スカウト活動が始まりました。旭区に近い城北公園にも付き添いでついて来ていた父と何度も行きました。
始めに書いた龍田市場への空襲の後すぐに、小学校の行事で城北公園に行った際にグラマン戦闘機に襲撃されました。行事の始めは何ともなかったですが、いきなりプロペラの回転音が聞こえ、あっという間もなく機関銃のバラバラ・ズキューンズキューンという連射が有り、老年・中高年・若者・子供・父・母の区別なく射撃の的になり、バタバタと一言も無く堤防の斜面にいろいろな方向を向いて倒れて、亡くなったり、負傷をされていたそうです。
父は友人と夢中で避難をし無事であったらしいのですが、どうやってにげたのか今でも記憶がハッキリしていないとの事でした。やはりその時も傷を負われた方からの赤黒い血液の色が生涯忘れられなかった様子です。城北公園に行く都度、帰宅時に父から何度も話を聞かされました。

最後に私自身の体験です。
私が小学校の時、枚方公園の入り口に手足が無く冬の寒い時期にも関わらず白いゆかたタイプの薄い白衣を着た中高年の方々が、裏寂れたメロディハーモニカ・ソプラノ笛で奏でられておられました。私は見てはいけない人を見たと思い、おもわず目を背けましたが、父から「目をそむけずに父さんの持っているお金を募金してきなさい」と言われました。
勇気を振りしぼってお金をダンボール箱に入れた際、「ありがとう」という声とその方のものがなしいひとみは一生忘れないと思います。

私の祖母・父・母(幼い時はただかっこいいと友達と兵器のプラモデルを買い、家に帰って見とめがられて怒られた記憶が有ります)は、声高に戦争反対を言っていた訳では有りませんが、色々な体験を自ら語って登(私自身)が考えると教え、諭してくれたのではないかと考え思います。
現在ニュースで紛争など報道される都度、胸が痛みます。やはり恒久的平和が一番です。

だいにじせかいたいせんご ちちとそぼからのはなし

ひらかたし Iさん 59さい

わたしのちちとそぼは、そぼのりこんご、きょうとからもりぐちにいじゅうしそぼのてひとつでせいかつをおくってました。
だいにじせかいたいせんごしゅうばん(たいへいようせんそう)、すんでいたちかくのたつたいちばにびー29からしょういだんがむすうにらっかしてだいかじになりました。とうかされ、じめんやたてものにふれるとがしゃんとなんともいえないおおきいおとがむすうにきこえたあとすぐにほのおがはっせいし、たてものをやきふきんにえんねんをおよぼします。ぼうくうごうにひなんするとちゅうで、こうせついちばでもありにちじょうてきにかいものにもいっていたたつたいちばのやねにもたすうのしょういだんがおち、なんともいえないぐれんのいろのほのおのあつさ、あざやかさだけが「おとなになってもわすれない」とちちがいい、そぼはくうしゅうがおわりじたくにもどるとじょうでまっくろにやけたいちばあとで、ひさいしたひとが、あつまってとほうにくれたひとびとが、なきさけんでいたようすがわすれられないといっていたことをたつたいちばあとをじてんしゃにのってちちととおるつどおもいだしました。

つぎに、しょうがっこうになり、おおさかしあさひくにあるぼーいすかうとおおさか122だんににゅうだんして、すかうとかつどうがはじまりました。あさひくにちかいしろきたこうえんにもつきそいでついてきていたちちとなんどもいきました。
はじめにかいたたつたいちばへのくうしゅうのあとすぐに、しょうがっこうのぎょうじでしろきたこうえんにいったさいにぐらまんせんとうきにしゅうげきされました。ぎょうじのはじめはなんともなかったですが、いきなりぷろぺらのかいてんおんがきこえ、あっというまもなくきかんじゅうのぱらぱら・ずきゅーんずきゅーんというれんしゃがあり、ろうねん・ちゅうこうねん・わかもの・こども・ちち・ははのくべつなくしゃげきのまとになり、ばたばたとひとこともなくていぼうのしゃめんにいろいろなほうこうをむいてたおれて、なくなったり、ふしょうをされていたそうです。
ちちはゆうじんとむちゅうでひなんをしぶじであったらしいのですが、どうやってにげたのかいまでもきおくがはっきりしていないとのことでした。やはりそのときもきずをおわれたかたからのあかぐろいけつえきのいろがしょうがいわすれられなかったようすです。しろきたこうえんにいくつど、きたくじにちちからなんどもはなしをきかされました。

さいごにわたしじしんのたいけんです。
わたしがしょうがっこうのとき、ひらかたこうえんのいりぐちにてあしがなくふゆのさむいじきにもかかわらずしろいゆかたたいぷのうすいはくいをきたちゅうこうねんのかたがたが、うらさびれためろでぃをはーもにか・そぷらのぶえでかなでられておられました。わたしはみてはいけないひとをみたとおもい、おもわずめをそむけましたが、ちちから「めをそむけずにとうさんのもっているおかねをぼきんしてきなさい」といわれました。
ゆうきをふりしぼっておかねをだんぼーるばこにいれたさい、「ありがとう」というこえとそのかたのものがなしいひとみはいっしょうわすれないとおもいます。

わたしのそぼ・ちち・はは(おさないときはただかっこいいとともだちとへいきのぷらもでるをかい、いえにかえってみとめがられておこられたきおくがあります)は、こわだかにせんそうはんたいをいっていたわけではありませんが、いろいろなたいけんをみずからかたってのぼる(わたしじしん)がかんがえろとおしえ、さとしてくれたのではないかとかんがえおもいます。
げんざいにゅーすでふんそうなどほうどうされるつど、むねがいたみます。やはりこうきゅうてきへいわがいちばんです。

・二次世界大戦(だいにじせかいたいせん)
1939(昭和14)年から1945(昭和20)年まで続いた、世界中の国々が関わった大きな戦争。ヨーロッパやアジア、アフリカなど各地で戦いが行われた。太平洋戦争は、この第二次世界大戦の一部。

・太平洋戦争(たいへいようせんそう)
1941(昭和16)年から1945(昭和20)年まで、日本がアメリカやイギリスなどと太平洋の広い地域で戦った戦争。

・B29
戦争中に日本の街を攻撃するために使われた、アメリカの巨大な飛行機(爆撃機)のこと。東京や大阪などの大きな街にたくさんの爆弾を落としたり、広島と長崎に原子爆弾を落とした飛行機。

・焼夷弾(しょういだん)
落ちると強い火を出し、建物や町を燃やすための爆弾。木造の家が多かった当時の日本では、大規模な火事を引き起こした。

・防空壕(ぼうくうごう)
敵の飛行機が来た時に、身を守るために入る地中に掘った穴。安全に避難できる場所と考えられていた。

・空襲(くうしゅう)
敵の飛行機が町や村に爆弾を落とすこと。一般の人々がケガをしたり、たくさんの人が亡くなった。

・グラマン戦闘機(せんとうき)
アメリカ合衆国のグラマン社が開発した戦闘機。アメリカ海軍が第二次世界大戦中に使用した。

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