

戦争の記憶を次世代に伝え、平和への想いを未来へつなげるために
組合員さんから寄稿いただいた、戦争体験談をご紹介します。
掲載年:2026年
交野市 Eさん 83歳
神戸市に住んでいた父母が、山口県宇部市に移り、私はその地で誕生しました。現在83歳になります。
しばらくして、父母私と3人で中国・満州に渡り、極寒マイナス40度の中でしたが、家の中はオンドルがあって過ごすには何不自由のない日々の中にいました。
やがて、戦争がきびしい状況なり、日本が負けた事が伝わってきました。まだ4才になったばかりの私にとって、理解出来ないニュースでした。
次の日から、ロシア兵が追ってくる事が伝わり、女性は男性の様に変装して、髪をボサボサにカットして顔に炭を塗り、ロシア兵から身を守ったと、後日母から聞きました。本当に戦争がどれ程恐ろしい世界か、あらためて思わされています。
現在ロシアがウクライナを苦しめ、中国が台湾やフィリピンを追いつめているニュースは、本当に心を痛める日々です。世界のリーダーが、平和の為に知恵深い考えを持って頂けたらと願う者です。
さて、私5才、弟2才、母と共に船に乗り、長崎佐世保に無事に着き、そこから故郷神戸にたどり着く事が出来ましたが、目にした神戸は一面焼野原で、家らしき物も少なく、どの様にして暮らして行けるのか、母の考えや行動に、私と弟は助け合っていこうと心に決心しました。
やがて親戚を頼り、伯父の家に身を寄せて、しばらくして母が借家を見つけて、神戸での暮らしが始まりました。
長く会っていなかった戦地で捕虜になっていた父が、私達の所に帰って来ました。父は体力が弱り、一ヶ月後に、私達を置いて亡くなりましたが、母の頑張りと囲りの方々の助けの中で、幼い私達もお手伝いしたり、力強く生きぬく事が出来、今日に至っています。やがて、焼野原に美しい野バラが咲き、モクレンの白い花が咲き、癒される日々となりました。
かたのし Eさん 83さい
こうべしにすんでいたふぼが、やまぐちけんうべしにうつり、わたしはそのちでたんじょうしました。げんざい83さいになります。
しばらくして、ふぼわたしと3にんでちゅうごく・まんしゅうにわたり、ごっかんまいなす40どのなかでしたが、いえのなかはおんどるがあってすごすにはなにふじゆうのないひびのなかにいました。
やがて、せんそうがきびしいじょうきょうなり、にほんがまけたことがつたわってきました。まだ4さいになったばかりのわたしにとって、りかいできないにゅーすでした。
つぎのひから、ろしあへいがおってくることがつたわり、じょせいはだんせいのようにへんそうして、かみをぼさぼさにかっとしてかおにすみをぬり、ろしあへいからみをまもったと、ごじつははからききました。ほんとうにせんそうがどれほどおそろしいせかいか、あらためておもわされています。
げんざいろしあがうくらいなをくるしめ、ちゅうごくがたいわんやふぃりぴんをおいつめているにゅーすは、ほんとうにこころをいためるひびです。せかいのりーだーが、へいわのためにちえぶかいかんがえをもっていただけたらとねがうものです。
さて、わたし5さい、おとうと2さい、ははとともにふねにのり、ながさきさせぼにぶじにつき、そこからこきょうこうべにたどりつくことができましたが、めにしたこうべはいちめんやきのはらで、いえらしきものもすくなく、どのようにしてくらしていけるのか、ははのかんがえやこうどうに、わたしとおとうとはたすけあっていこうとこころにけっしんしました。
やがてしんせきをたより、おじのいえにみをよせて、しばらくしてははがしゃくやをみつけて、こうべでのくらしがはじまりました。
ながくあっていなかったせんちでほりょになっていたちちが、わたしたちのところにかえってきました。ちちはたいりょくがよわり、いっかげつごに、わたしたちをおいてなくなりましたが、ははのがんばりとめぐりのかたがたのたすけのなかで、おさないわたしたちもおてつだいしたり、ちからづよくいきぬくことができ、きょうにいたっています。やがて、やけのはらにうつくしいのばらがさき、もくれんのしろいはながさき、いやされるひびとなりました。