わたしの戦争体験集

わたしの戦争体験集

戦争の記憶を次世代に伝え、平和への想いを未来へつなげるために
組合員さんから寄稿いただいた、戦争体験談をご紹介します。

いざとなれば神風が吹くと 心から信じていました

掲載年:2026年

大阪市東住吉区 Tさん 95歳

兄が12月8日開戦の前に召集されて出征しました。その日の内に敦賀駅から外地へ出発したのです。急を聞いて父母は駅に駆けつけましたが、すでに兄は整列していて言葉を交わす事も出来ずに行きました。父母は何時迄も非常に悲しんでいました。最後に小さな島に行く葉書が来て、レイテ島で戦死しました。

隣の叔父さんが出征の前夜、私の家の台所で号泣された事です。3、4才の年子の姉弟と病弱な奥様を残して、母にすがる様に泣かれてた姿は、何時までたっても忘れる事が出来ません。北方で戦死されました。
私は滋賀県立木之本高等女学校に通学していました。軍馬の飼料の草刈を山や川辺でやり、農家の手伝いにも行きました。上級生は教室や講堂で繭を眞綿にする作業をしていました。兵隊さんの防寒着に使われます。昭和19年9月9日の夜、繭を炊く釜の加熱で火事になり、校舎は全焼しました。小学校の空室で勉強、まもなく上級生は名古屋の軍需工場へ学徒動員で行きました。

私2年生は20年3月中頃、彦根の近江航空に学徒動員され級友と共に寮に入りました。毎朝白い鉢巻をして整列し“海ゆかば”校歌等合唱し乍らそれぞれの職場に行きました。4月頃日本で初めての木製飛行機が琵琶湖から飛び立つ式典に参加しました。工場の広場では、工員さん学徒兵を見送る胴上げ歌声が毎日の様に響いていました。食事は脱脂大豆と玄米の主食と、わかめではない固い海草のみそ汁がよくあった事を覚えています。7月頃から空襲・警戒警報がはげしくなり。特に昼には機銃掃射が毎日の様になり、田んぼの畦道を一生懸命走って山に逃げました。パンパンと言う音が頭の上を追いかける様で本当に恐かったです。
爆弾が工場に三ヶ程落ちた日は 生きた心地はしませんでした。ある日北の方が赤く染まっていたので皆でさわいでいました。後で敦賀の大空襲だと聞いた時は 本当にびっくりして信じられませんでした。 東京に帰られた先輩から大空襲の悲惨な状態を聞かされた時、日本は絶対に敗けない、いざとなれば神風が吹く等と言って友達に反論した事を覚えています。本当に心から信じていました。8月の始め家へ帰りました。

毎日着たまま過していた為に、毛じらみ等大変でした。上級生の中では腸チフスで亡くなった方もおられました。
戦後はしばらく農家の稲刈り等手伝いに行きました。21年頃から勉強する様になったと思います。

いざとなればかみかぜがふくと こころからしんじていました

おおさかしひがしすみよしく Tさん 95さい

あにが12がつ8にちかいせんのまえにしょうしゅうされてしゅっせいしました。そのひのうちにつるがえきからがいちへしゅっぱつしたのです。きゅうをきいてふぼはえきにかけつけましたが、すでにあにはせいれつしていてことばをかわすこともできずにいきました。ふぼはいつまでもひじょうにかなしんでいました。さいごにちいさなしまにいくはがきがきて、れいてとうでせんししました。

となりのおじさんがしゅっせいのぜんや、わたしのいえのだいどころでごうきゅうされたことです。3、4さいのとしごのしていとびょうじゃくなおくさまをのこして、ははにすがるさまになかれてたすがたは、いつまでたってもわすれることができません。ほっぽうでせんしされました。
わたしはしがけんりつきのもとこうとうじょがっこうにつうがくしていました。ぐんばのしりょうのくさかりをやまやかわべでやり、のうかのてつだいにもいきました。じょうきゅうせいはきょうしつやこうどうでまゆをまわたにするさぎょうをしていました。へいたいさんのぼうかんぎにつかわれます。しょうわ19ねん9がつ9にちのよる、まゆをたくかまのかねつでかじになり、こうしゃはぜんしょうしました。しょうがっこうのくうしつでべんきょう、まもなくじょうきゅうせいはなごやのぐんじゅこうじょうへがくとどういんでいきました。

わたし2ねんせいは20ねん3がつなかごろ、ひこねのおうみこうくうにがくとどういんされきゅうゆうとともにりょうにはいりました。まいあさしろいはちまきをしてせいれつし“うみゆかば”こうかなどがっしょうしながらそれぞれのしょくばにいきました。4がつころにほんではじめてのもくせいひこうきがびわこからとびたつしきてんにさんかしました。こうじょうのひろばでは、こういんさんがくとへいをみおくるどうあげうたごえがまいにちのようにひびいていました。しょくじはだっしだいずとげんまいのしゅしょくと、わかめではないかたいかいそうのみそしるがよくあったことをおぼえています。7がつころからくうしゅう・けいかいけいほうがはげしくなり。とくにひるにはきじゅうそうしゃがまいにちのようになり、たんぼのあぜみちをいっしょうけんめいはしってやまににげました。ぱんぱんというおとがあたまのうえをおいかけるようでほんとうにこわかったです。
ばくだんがこうじょうにさんこほどおちたひは いきたここちはしませんでした。あるひきたのほうがあかくそまっていたのでみなでさわいでいました。あとでつるがのだいくうしゅうだときいたときは ほんとうにびっくりしてしんじられませんでした。
とうきょうにかえられたせんぱいからだいくうしゅうのひさんなじょうたいをきかされたとき、にほんはぜったいにまけない、いざとなればかみかぜがふくなどといってともだちにはんろんしたことをおぼえています。ほんとうにこころからしんじていました。8がつのはじめいえへかえりました。

まいにちきたまますごしていたために、けじらみなどたいへんでした。じょうきゅうせいのなかではちょうちふすでなくなったかたもおられました。
せんごはしばらくのうかのいねかりなどてつだいにいきました。21ねんころからべんきょうするようになったとおもいます。

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