わたしの戦争体験集

わたしの戦争体験集

戦争の記憶を次世代に伝え、平和への想いを未来へつなげるために
組合員さんから寄稿いただいた、戦争体験談をご紹介します。

戦争は 暮らしが破壊され命さえも危険にさらされる

掲載年:2026年

大阪市中央区 Sさん 93歳

昭和30年3月18日大阪に焼夷弾の雨が降り注ぎました。それまで私は大阪にいてはあぶないと、集団学童疎開で和歌山の高野山のふもと和歌山県伊都郡河根村日輪寺にいました。
国民学校6年生の時、母は時々疎開先に来てくれてこっそり飴などのさし入れをもってきてくれました。今思うとなんでも配給だったのに持ってくるのも大へんな苦労をしたのではないでしょうか。そんななか修学旅行は高野山でした。日帰りでしたが行ったのを思いだします。そして卒業式というので全員で大阪にかえって来ました。
明日というのでいろいろ準備をしてくれていて、阿倍野高女に行く準備も整えられていました。

その夜18日、あの大阪大空襲にあい何もかもなくなってしまいました。その夜自警団の方がきて皆逃るようにと声をかけられたので、我家もそうですが私は一番下の1才にもなっていない妹を背負い、母にはぐれないようについてくのがたいへんでした。

そんななか、父と兄は当時住んでいた天下茶屋の長屋が順番に焼けていくのを見ることしか出来ず焼けおちるのを見届けてきたと後でききました。
とにかく西に逃げたらいいというので西に逃げ広い道国道26号線に出て鉄橋の下で休む事が出来ました。そのあとやっと玉出小学校について、妹の襁褓(おしめ)を変えることができました。

家族が無事と喜ぶまもなく、住む家を父が探してきて玉出に一時落ち着きました。その後、父の実家のある石川県に行きましたが母は大阪へ帰りたい、絶えず言っていた事を思いだします。そして金沢の駅近くに移り大阪で府立女学校に行く事になっていたので県立㐧一女学校に入りました。

そこでの食料は配給が頼りで母は苦労して食料を手に入れていたのではないでしょうか。
その当時私は、近所のお姉さんについていき、野草など食べられるものをつんできたりしましたがそれを母が料理したかは覚えていないです。それから大阪に一家で戻った時、大阪駅前の沢山ならんでおられた傷夷軍人の人を見ておどろいたのを思い出します。そして私が女学校3年生の時に母が亡くなり、卒業まで金沢に残った兄は母の死に目にあえませんでした。その後私は嫁に行くまで母の代わりをしていました。

大阪に帰って食物で思い出すのはだんご汁です。これなどいつもお腹いっぱい食べられないので記憶にのこったのでしょう。戦争は家族を巻きこみ、暮らしが破壊され命さえも危険にさらされます。しかも被害は市民です。どんなに言い分があっても戦争はしてはいけないと思っています。

せんそうは くらしがはかいされいのちさえもきけんにさらされる

おおさかしちゅうおうく Sさん 93さい

しょうわ30ねん3がつ18にちおおさかにしょういだんのあめがふりそそぎました。それまでわたしはおおさかにいてはあぶないと、しゅうだんがくどうそかいでわかやまのこうやさんのふもとわかやまけんいとぐんかねむらにちりんじにいました。
こくみんがっこう6ねんせいのとき、はははときどきそかいさきにきてくれてこっそりあめなどのさしいれをもってきてくれました。いまおもうとなんでもはいきゅうだったのにもってくるのもたいへんなくろうをしたのではないでしょうか。そんななかしゅうがくりょこうはこうやさんでした。ひがえりでしたがいったのをおもいだします。そしてそつぎょうしきというのでぜんいんでおおさかにかえってきました。
あすというのでいろいろじゅんびをしてくれていて、あべのこうじょにいくじゅんびもととのえられていました。

そのよる18にち、あのおおさかだいくうしゅうにあいなんもかもなくなってしまいました。そのよるじけいだんのかたがきてみなにげるようにとこえをかけられたので、わがやもそうですがわたしはいちばんしたの1さいにもなっていないいもうとをせおい、ははにはぐれないようについてくのがたいへんでした。

そんななか、ちちとあにはとうじすんでいたてんかちゃやのながやがじゅんばんにやけていくのをみることしかできずやけおちるのをみとどけてきたとあとでききました。
とにかくにしににげたらいいというのでにしににげひろいみちこくどう26ごうせんにでててっきょうのもとでやすむことができました。そのあとやっとたまでしょうがっこうについて、いもうとのおしめをかえることができました。

かぞくがぶじとよろこぶまもなく、すむいえをちちがさがしてきてたまでにいちじおちつきました。そのご、ちちのじっかのあるいしかわけんにいきましたがはははおおさかへかえりたい、たえずいっていたことをおもいだします。そしてかなざわのえきちかくにうつりおおさかでふりつじょがっこうにいくことになっていたのでけんりつだいいちじょがっこうにはいりました。

そこでのしょくりょうははいきゅうがたよりではははくろうしてしょくりょうをてにいれていたのではないでしょうか。
そのとうじわたしは、きんじょのおねえさんについていき、やそうなどたべられるものをつんできたりしましたがそれをははがりょうりしたかはおぼえていないです。それからおおさかにいっかでもどったとき、おおさかえきまえのたくさんならんでおられたしょういぐんじんのひとをみておどろいたのをおもいだします。そしてわたしがじょがっこう3ねんせいのときにははがなくなり、そつぎょうまでかなざわにのこったあにはははのしにめにあえませんでした。そのあとわたしはよめにいくまでははのかわりをしていました。

おおさかにかえってたべものでおもいだすのはだんごじるです。これなどいつもおなかいっぱいたべられないのできおくにのこったのでしょう。せんそうはかぞくをまきこみ、くらしがはかいされいのちさえもきけんにさらされます。しかもひがいはしみんです。どんなにいいぶんがあってもせんそうはしてはいけないとおもっています。

わたしの戦争体験TOPへ戻る