わたしの戦争体験集

わたしの戦争体験集

戦争の記憶を次世代に伝え、平和への想いを未来へつなげるために
組合員さんから寄稿いただいた、戦争体験談をご紹介します。

当時の明治民法を思う

掲載年:2026年

大阪市住吉区 Tさん 96歳

私は96才です。布施市(現、東大阪市)で9人兄弟姉妹の真中に生まれました。1才で満州事変が起き、日清戦争、大東亜戦争と続き、15才の8月15日敗戦の玉音を聞きました。
12才の4月近所の女学校に入学したら、50代のお作法の先生が「男は賢く、女は馬鹿だから、従順が一番の婦徳である」と教えた。
当時の明治民法は、「女は大学に行けない、本の出版人になれない、離婚する時は妻は子供を置いて行く(子供は夫のもの)、夫は妾を何人持ってもよい」と云ったものでした。
「男子厨房に入らず」という慣習で、私が夏の暑い日に、だらだら汗をかきながら11人分の御飯を薪で炊いていても、すぐ下の弟は涼しい西風の通る所で寝ていました。洗濯も盥で洗濯板を使って手洗いしました。

戦況が悪化すると兄は出征し、一番下の妹と弟は奈良の祖父母の元に疎開しました。
すぐに食糧難になり、母は土地を借りて百姓を始めました。私とすぐ上の姉は、女学校から帰ると、二人で肥たごを担いで町中を歩き畑にやりました。臭くて恥ずかしい思いでした。さつまいも、かぼちゃ、大豆、米など作りました。夏休みは田の草とりでヒルに吸いつかれ、脛から血が流れました。秋になると稲刈りで、雨模様だと星空を仰いでも働き続けました。母のお陰で、戦争中ひもじい思いをせずに済んだので、今は感謝しています。

女学校の2年生になると軍需工場に働きに行かされました。平野にあり敵機が来撃して、私が空を見ていると、米兵の顔がはっきり見えました。機銃掃射をして来たので、慌てて防空壕に飛び込みました。連日空襲があり焼夷弾がジャーという音で、雨あられと降って来ました。大阪が焼野原となり、電車が止まり、平野から布施まで線路を4時間かけて歩きました。黒い雨が降って来ました。後日布施市も焼野原になった時は、すごい量の焼夷弾でした。不思議な事に私の家の一画だけ少し焼け残りました。

戦後のインフレはすさまじく、一週間毎に倍々になっていきました。闇市ができヤクザが闊歩していて、無政府状態で配給も殆ど無く、弱い人達は栄養失調になり、餓死する人もありました。戦後3年目にようやく世の中が落ち着いて来ました。

戦争で若い男性が多く死に、戦後は男一人に女10人と云われました。二人の姉も生涯独身でした。私は洋裁で身を立て様と、近所の女子専門学校の被服科に入学しました。卒業後は男仕立も今里まで習いに行き研鑚を積みました。自分に経済力があったので、今日まで生きのびる事が出来ました。

戦争はつらい、悲しい、沢山の民間人も死んだ。だが一つだけよい事があった。女にとって明治民法がなくなった事だ。
少女の頃、女に生まれたのが悔しくて、ふとんの中で泣いたのを、なつかしく思い出します。

とうじのめいじみんぽうをおもう

おおさかしすみよしく Tさん 96さい

わたしは96さいです。ふせし(げん、ひがしおおさかし)で9にんきょうだいしまいのまんなかにうまれました。1さいでまんしゅうじへんがおき、にっしんせんそう、だいとうあせんそうとつづき、15さいの8がつ15にちはいせんのぎょくおんをききました。
12さいの4がつきんじょのじょがっこうににゅうがくしたら、50だいのおさほうのせんせいが「おとこはかしこく、おんなはばかだから、じゅうじゅんがいちばんのふとくである」とおしえた。
とうじのめいじみんぽうは、「おんなはだいがくにいけない、ほんのしゅっぱんにんになれない、りこんするときはつまはこどもをおいていく(こどもはおっとのもの)、おっとはめかけをなんにんもってもよい」といったものでした。
「だんしちゅうぼうにはいらず」というかんしゅうで、わたしがなつのあついひに、だらだらあせをかきながら11にんぶんのごはんをまきでたいていても、すぐしたのおとうとはすずしいにしかぜのとおるところでねていました。せんたくもたらいでせんたくばんをつかっててあらいしました。
せんきょうがあっかするとあにはしゅっせいし、いちばんしたのいもうととおとうとはならのそふぼのもとにそかいしました。
すぐにしょくりょうなんになり、はははとちをかりてひゃくしょうをはじめました。わたしとすぐうえのあねは、じょがっこうからかえると、ふたりでこえたごをかついでまちなかをあるきはたけにやりました。くさくてはずかしいおもいでした。さつまいも、かぼちゃ、だいず、こめなどつくりました。なつやすみはたのくさとりでひるにすいつかれ、すねからちがながれました。あきになるといねかりで、あめもようだとほしぞらをあおいでもはたらきつづけました。ははのおかげで、せんそうちゅうひもじいおもいをせずにすんだので、いまはかんしゃしています。
じょがっこうの2ねんせいになるとぐんじゅこうじょうにはたらきにいかされました。ひらのにありてききがらいげきして、わたしがそらをみていると、べいへいのかおがはっきりみえました。きじゅうそうしゃをしてきたので、あわててぼうくうごうにとびこみました。れんじつくうしゅうがありしょういだんがじゃーというおとで、あめあられとふってきました。おおさかがやけのはらとなり、でんしゃがとまり、ひらのからふせまでせんろを4じかんかけてあるきました。くろいあめがふってきました。ごじつふせしもやけのはらになったときは、すごいりょうのしょういだんでした。ふしぎなことにわたしのいえのいっかくだけすこしやけのこりました。
せんごのいんふれはすさまじく、いっしゅうかんごとにばいばいになっていきました。やみいちができやくざがかっぽしていて、むせいふじょうたいではいきゅうもほとんどなく、よわいひとたちはえいようしっちょうになり、がしするひともありました。せんご3ねんめにようやくよのなかがおちついてきました。
せんそうでわかいだんせいがおおくしに、せんごはおとこひとりにおんな10にんといわれました。ふたりのあねもしょうがいどくしんでした。わたしはようさいでみをたてようと、きんじょのじょしせんもんがっこうのひふくかににゅうがくしました。そつぎょうごはおとこじたてもいまざとまでならいにいきけんさんをつみました。じぶんにけいざいりょくがあったので、きょうまでいきのびることができました。
せんそうはつらい、かなしい、たくさんのみんかんじんもしんだ。だがひとつだけよいことがあった。おんなにとってめいじみんぽうがなくなったことだ。
しょうじょのころ、おんなにうまれたのがくやしくて、ふとんのなかでないたのを、なつかしくおもいだします。

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