

戦争の記憶を次世代に伝え、平和への想いを未来へつなげるために
組合員さんから寄稿いただいた、戦争体験談をご紹介します。
掲載年:2026年
大阪市鶴見区 Nさん 88歳
毎年終戦記念日が来ると当時7才だった、幼い日の記憶が甦える。
父の仕事の関係で私は、旧満州の新京という街で育った。
昭和20年の夏、8月太陽が燦々と降りそそぐ暑い日、空を見上げて父も戦地で戦っているのだろうなあーと、思った瞬間、空襲警報の音がかん高く鳴り響き私達母子3人は、近所の人々と声をかけ合いながら、防空壕へかけこんだ。B29が音も立てず飛んで来て次から次へと落としていく。
恐怖におびえる私に、母はやさしく「だいじょうぶよ」と云って肩を抱いてくれた。
乳のみ子を抱えた若いお母さんは、赤ん坊のかん高い泣き声に、ただおびえておどおどした状況だった。
やがて、警戒警報が鳴り外に出て見ると街全体が家屋はくずれ、まるで街一面火の海だった。私は恐怖のあまり母にしがみついた。と次の瞬間、老人と女の人達はバケツを持って火の中へと消えて行った。一生懸命バケツリレーで、消しても消しても消えない火の勢いは、すさまじいもので止まらなかった。
やがてすぐそこにロシアの兵隊が来ている、満州にいる日本人は危険という情報があり、皆、日本に帰る事になった。
とに角、日本に帰る列車に乗るために急いだ。
道中、あちこちに死骸が散乱していた。
見てはいけないと、母に云われ列車へと向って走り続けた。何とか日本に帰るための列車に乗ることができた。
列車内は、ギュウギュウ積めで、ねずみ一匹入る隙間もない状態であった。
現在の日本のように時間どおりに走る事もなく、走ったり止まったりで何時間も止まった事もあった。夜も敵に見つからないよう車内の電燈を消して走り続けていた。皆、疲労とショックで疲れはて無言であった。
何日走っただろうか、列車を見つけて銃声が鳴り響き、一瞬恐怖におびえた皆の顔が浮びあがった。私も不安と恐怖で母のモンペ服をかたく握りしめた。
やがてその列車を降り又、石炭車に乗せられて悲惨な状況だったが日本へ帰れるという希望を持っていて苦しい列車もそんなに苦痛ではなかった。
終戦を耳にしたのは、何日かたった列車の中であった。
「日本が負けたぞー。戦争が終わったぞー」とわめく老人、泣き叫ぶ人。あちこちで、すすり泣く声に兄と私は事の重大さを感じました。
現在のように、日本が永遠に平和である事を祈ります。
おおさかしつるみく Nさん 88さい
まいとししゅうせんきねんひがくるととうじ7さいだった、おさないひのきおくがよみがえる。
ちちのしごとのかんけいでわたしは、きゅうまんしゅうのしんきょうというまちでそだった。
しょうわ20ねんのなつ、8がつたいようがさんさんとふりそそぐあついひ、そらをみあげてちちもせんちでたたかっているのだろうなあーと、おもったしゅんかん、くうしゅうけいほうのおとがかんだかくなりひびきわたしたちぼし3にんは、きんじょのひとびととこえをかけあいながら、ぼうくうごうへかけこんだ。びー29がおともたてずとんできてつぎからつぎへとおとしていく。
きょうふにおびえるわたしに、はははやさしく「だいじょうぶよ」といってかたをいだいてくれた。
ちちのみごをかかえたわかいおかあさんは、あかんぼうのかんだかいなきごえに、ただおびえておどおどしたじょうきょうだった。
やがて、けいかいけいほうがなりそとにでてみるとまちぜんたいがかおくはくずれ、まるでまちいちめんひのうみだった。わたしはきょうふのあまりははにしがみついた。とつぎのしゅんかん、ろうじんとおんなのひとたちはばけつをもってひのなかへときえていった。いっしょうけんめいばけつりれーで、けしてもけしてもきえないひのいきおいは、すさまじいものでとまらなかった。
やがてすぐそこにろしあのへいたいがきている、まんしゅうにいるにほんじんはきけんというじょうほうがあり、みな、にほんにかえることになった。
とにかく、にほんにかえるれっしゃにのるためにいそいだ。
どうちゅう、あちこちにしがいがさんらんしていた。
みてはいけないと、ははにいわれれっしゃへとむかってはしりつづけた。なんとかにほんにかえるためのれっしゃにのることができた。
れっしゃないは、ぎゅうぎゅうつめで、ねずみいっぴきはいるすきまもないじょうたいであった。
げんざいのにほんのようにじかんどおりにはしることもなく、はしったりとまったりでなんじかんもとまったこともあった。よるもてきにみつからないようしゃないのでんとうをけしてはしりつづけていた。みな、ひろうとしょっくでつかれはてむごんであった。
なんにちはしっただろうか、れっしゃをみつけてじゅうせいがなりひびき、いっしゅんきょうふにおびえたみなのかおがうかびあがった。わたしもふあんときょうふでははのもんぺふくをかたくにぎりしめた。
やがてそのれっしゃをおりまた、せきたんしゃにのせられてひさんなじょうきょうだったがにほんへかえれるというきぼうをもっていてくるしいれっしゃもそんなにくつうではなかった。
しゅうせんをみみにしたのは、なんにちかたったれっしゃのなかであった。
「にほんがまけたぞー。せんそうがおわったぞー」とわめくろうじん、なきさけぶひと。あちこちで、すすりなくこえにあにとわたしはことのじゅうだいさをかんじました。
げんざいのように、にほんがえいえんにへいわであることをいのります。