わたしの戦争体験集

わたしの戦争体験集

戦争の記憶を次世代に伝え、平和への想いを未来へつなげるために
組合員さんから寄稿いただいた、戦争体験談をご紹介します。

二度としたくない経験

掲載年:2026年

枚方市 Tさん 85歳

私が5歳の時の出来事。私の実家は、今の京阪電車の香里園、その向かいに関西医大香里病院、そこから5分ぐらいの所に聖母女学院があり実家は近かった。
或る父が、庭に大きな穴を掘り始めたのは防空壕だった。横には納屋、離、横には井戸端、水道のない時代家族には欠かすことの出来ない生活の水、その横でたくさんの野菜を作っていた。やがて壕が出来て、家族や近所の人も喜んでくれた。
ところが、雨が降ると、下から水が滲み出て納屋から藁や筵を重ねてしのいだ。又雪の時は出入口の雪を払って入った事もある。壕の中で話をしていたら、声が聞こえると爆弾が落ちて来るよなどと、又母のいつもの口癖で早く寝ないと警報のサイレンが鳴ると大変よと、冬は昼着ている防寒コートを脱いだらそのまま布団の中へ、やがてイヤないつものサイレンが鳴ると、暗い部屋から起きるのが私には大変だった。足はフラフラで、枕元にいつも置いていた小さなリュックを背負い水筒は肩から下げて、兄と姉に両手を支えて貰い、やっとの事で壕に入るまでが、とても辛かった。

そんな或る日突然根屋から不思議な音がして、カランカランと落ちて来たのは薬莢だった。それを知った父の声は恐ろしく怖い声だった。「触ったらあかん、触ったらあかん」とくり返していた。真鍮色した丸い輪が五つあり、3つは丸い穴だけ開いていて2つは爆弾がくっついたままだった。どれぐらい経ったか覚えていないが爆発しなくて良かったなあと言っていた。その薬莢は、いつか役所から取りに来られたとか、今は聞かなくなったがその頃は枚方八尾線と言った道に、大きな爆弾が落ちてその車道が壊れてしまった。
駅から10分位聖母女学院からもそれぐらいの場所だったか、噂では聖母女学院が、白い鉄筋の建物を学校と知らず敵は工場と間違えて狙ったか、命中出来ずに道にずれてしまったらしいとか、同志社香里校の通学道だった。

恐怖ばかりの日々で、まだまだ凄い音を経験した事、今ウクライナ、ロシアの戦地で良くテレビで見るシーン、戦車を良く見るが、私は戦時中たった一度だけだったが、目の前で戦車が何台も何十台も進行するところを経験した事があった。子供の頃でもあり、耳が壊れるような音の大きさを知った。
又或る日は突然大きなラッパ、軍歌を歌い何十人どころではない長い長い行列と言うか、兵隊さんの行進を目の前で見たが、とても勇ましく見えた。鉄砲を肩に担ぎ、長い間足音が続き、姿が小さくなるまで見ていた。
大人の人が、「あの兵士は大阪天満の大阪城があるところまで行くんだよ」と言っていたのを懐かしく思い出される。

にどとしたくないけいけん

ひらかたし Tさん 85さい

わたしが5さいのときのできごと。わたしのじっかは、いまのけいはんでんしゃのこおりえん、そのむかいにかんさいいだいこおりびょういん、そこから5ふんぐらいのところにせいぼじょがくいんがありじっかはちかかった。
あるちちが、にわにおおきなあなをほりはじめたのはぼうくうごうだった。よこにはなや、はなれ、よこにはいどばた、すいどうのないじだいかぞくにはかかすことのできないせいかつのみず、そのよこでたくさんのやさいをつくっていた。やがてごうができて、かぞくやきんじょのひともよろこんでくれた。
ところが、あめがふると、したからみずがにじみでてなやからわらやむしろをかさねてしのいだ。またゆきのときはでいりぐちのゆきをはらってはいったこともある。ごうのなかではなしをしていたら、こえがきこえるとばくだんがおちてくるよなどと、またははのいつものくちぐせではやくねないとけいほうのさいれんがなるとたいへんよと、ふゆはひるきているぼうかんこーとをぬいだらそのままふとんのなかへ、やがていやないつものさいれんがなると、くらいへやからおきるのがわたしにはたいへんだった。あしはふらふらで、まくらもとにいつもおいていたちいさなりゅっくをせおいすいとうはかたからさげて、あにとあねにりょうてをささえてもらい、やっとのことでごうにはいるまでが、とてもつらかった。

そんなあるひとつぜんねやからふしぎなおとがして、からんからんとおちてきたのはやっきょうだった。それをしったちちのこえはおそろしくこわいこえだった。「さわったらあかん、さわったらあかん」とくりかえしていた。しんちゅういろしたまるいわがいつつあり、3つはまるいあなだけひらいていて2つはばくだんがくっついたままだった。どれぐらいたったかおぼえていないがばくはつしなくてよかったなあといっていた。そのやっきょうは、いつかやくしょからとりにこられたとか、いまはきかなくなったがそのころはひらかたやおせんといったみちに、おおきなばくだんがおちてそのしゃどうがこわれてしまった。
えきから10ぷんくらいせいぼじょがくいんからもそれぐらいのばしょだったか、うわさではせいぼじょがくいんが、しろいてっきんのたてものをがっこうとしらずてきはこうじょうとまちがえてねらったか、めいちゅうできずにみちにずれてしまったらしいとか、どうししゃこおりこうのつうがくどうだった。

きょうふばかりのひびで、まだまだすごいおとをけいけんしたこと、いまうくらいな、ろしあのせんちでよくてれびでみるしーん、せんしゃをよくみるが、わたしはせんじちゅうたったいちどだけだったが、めのまえでせんしゃがなんだいもなんじゅうだいもしんこうするところをけいけんしたことがあった。こどものころでもあり、みみがこわれるようなおとのおおきさをしった。
またあるひはとつぜんおおきならっぱ、ぐんかをうたいなんじゅうにんどころではないながいながいぎょうれつというか、へいたいさんのこうしんをめのまえでみたが、とてもいさましくみえた。てっぽうをかたにかつぎ、ながいあいだあしおとがつづき、すがたがちいさくなるまでみていた。
おとなのひとが、「あのへいしはおおさかてんまのおおさかじょうがあるところまでいくんだよ」といっていたのをなつかしくおもいだされる。

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