

戦争の記憶を次世代に伝え、平和への想いを未来へつなげるために
組合員さんから寄稿いただいた、戦争体験談をご紹介します。
掲載年:2026年
枚方市 Iさん 90歳
小学校に入った年に戦争は始まりました。すると生活のすべてが軍事優先になりました。まず靴です。豚皮と言って、ボール紙を芯に豚の薄い皮を張ったものになりました。ついて遊んだ毬がなくなりました。ゴムがなくなったのです。
やがて食べ物がなくなりました。配給となり、米はほんの少しで、豆カスという大豆の油をしぼったあとが配給されたりしました。それを米にまぜたのです。わが家は父と母、姉2人の暮らしでしたが、女学生だった姉たちは軍需工場に行って、武器を作りました。教員だった父も学生の引率で大阪の砲兵工廠へ行きました。
たいていの家では父や兄が赤紙で召集されて、兵隊となり戦地へ行きました。
昭和20年3月はじめに東京、名古屋、大阪が連続して大空襲に合いました。
住んでいた京都も学童疎開をすることが急遽決まりました。次に戦う戦力を残すためです。わたしは縁故疎開で父の実家の鹿児島県串木野市の鉄道の駅からは遠い小さな村へ行くことになりました。母が一緒でした。自分で持っていけるだけの物しか持っていけません。わたしは母が一緒なのと、食べ物があるというので、ただ喜んでいました。
途中空襲のため列車が止まって怖い思いはしましたが、村までたどりつきました。
村の学校へ通うようになると、授業はほとんどなく、山へ開墾に行きました。5年生は伐った木を学校まで運びます。S字に曲がりくねった山道をのぼり、木を引きずってくだります。一人5回のノルマがありました。
学校が一度機銃掃射を受けましたが、普通は敵の飛行機は上をとおりすぎました。川内市も串木野市も鹿児島市も爆撃を受けて焼け野原になっていました。原爆が落ちたことは新型爆弾の噂として伝わってきました。
突然山奥に隠れるように命令がきました。村の人は山奥へ移動して、小屋を建てたりしました。母と二人で知り合いのところへ昼間は行くことになりました。でも、狭い小屋に夜まではおられません。村へ帰るより仕方ありません。夜誰もいなくなった村にいると、どこかで爆弾の落ちる音が地響きとなって伝わってきます。庭の大きな石の後ろに隠れていました。母に遅れて一人山道を登っているときに、低空で来た敵機に追われたこともありました。わたしは山へ行くのを止めて近くの海岸に作られていた横穴壕に行きました。おばあさんが二人と少年がいました。
なぜ山へ逃げるのかは知らされていませんでしたが、後になって分かったことは村から南へずっと続く長い海岸が上陸予定地のひとつだったということです。本土決戦になる前に無条件降伏となったので、わたしはここに生き延びています。ただ運がよかっただけです。戦争になればだれ一人そこから逃れることができないのです。
沖縄が米軍に占領されてから、敵の飛行機が頭の上を飛ぶようになりました。
ひらかたし Iさん 90さい
しょうがっこうにはいったとしにせんそうははじまりました。するとせいかつのすべてがぐんじゆうせんになりました。まずくつです。ぶたがわといって、ぼーるしをしんにぶたのうすいかわをはったものになりました。ついてあそんだまりがなくなりました。ごむがなくなったのです。
やがてたべものがなくなりました。はいきゅうとなり、こめはほんのすこしで、まめかすというだいずのあぶらをしぼったあとがはいきゅうされたりしました。それをこめにまぜたのです。わがやはちちとはは、あね2りのくらしでしたが、じょがくせいだったあねたちはぐんじゅこうじょうにいって、ぶきをつくりました。きょういんだったちちもがくせいのいんそつでおおさかのほうへいこうしょうへいきました。
たいていのいえではちちやあにがあかがみでしょうしゅうされて、へいたいとなりせんちへいきました。
しょうわ20ねん3がつはじめにとうきょう、なごや、おおさかがれんぞくしてだいくうしゅうにあいました。
すんでいたきょうともがくどうそかいをすることがきゅうきょきまりました。つぎにたたかうせんりょくをのこすためです。わたしはえんこそかいでちちのじっかのかごしまけんくしきのしのてつどうのえきからはとおいちいさなむらへいくことになりました。ははがいっしょでした。じぶんでもっていけるだけのものしかもっていけません。わたしはははがいっしょなのと、たべものがあるというので、ただよろこんでいました。
とちゅうくうしゅうのためれっしゃがとまってこわいおもいはしましたが、むらまでたどりつきました。
むらのがっこうへかようようになると、じゅぎょうはほとんどなく、やまへかいこんにいきました。5ねんせいはきったきをがっこうまではこびます。えすじにまがりくねったやまみちをのぼり、きをひきずってくだります。ひとり5かいののるまがありました。
がっこうがいちどきじゅうそうしゃをうけましたが、ふつうはてきのひこうきはうえをとおりすぎました。かわうちしもくしきのしもかごしましもばくげきをうけてやけのはらになっていました。げんばくがおちたことはしんがたばくだんのうわさとしてつたわってきました。
とつぜんやまおくにかくれるようにめいれいがきました。むらのひとはやまおくへいどうして、こやをたてたりしました。ははとふたりでしりあいのところへひるまはいくことになりました。でも、せまいこやによるまではおられません。むらへかえるよりしかたありません。よるだれもいなくなったむらにいると、どこかでばくだんのおちるおとがじひびきとなってつたわってきます。にわのおおきないしのうしろにかくれていました。ははにおくれてひとりやまみちをのぼっているときに、ていくうできたてききにおわれたこともありました。わたしはやまへいくのをとめてちかくのかいがんにつくられていたよこあなごうにいきました。おばあさんがふたりとしょうねんがいました。
なぜやまへにげるのかはしらされていませんでしたが、あとになってわかったことはむらからみなみへずっとつづくながいかいがんがじょうりくよていちのひとつだったということです。ほんどけっせんになるまえにむじょうけんこうふくとなったので、わたしはここにいきのびています。ただうんがよかっただけです。せんそうになればだれひとりそこからのがれることができないのです。
おきなわがべいぐんにせんりょうされてから、てきのひこうきがあたまのうえをとぶようになりました。