わたしの戦争体験集

わたしの戦争体験集

戦争の記憶を次世代に伝え、平和への想いを未来へつなげるために
組合員さんから寄稿いただいた、戦争体験談をご紹介します。

平和への願い

掲載年:2026年

大東市 Yさん 87歳

楽しいはずの幼少期が、大切な家族との別れに怯え、ひもじさに耐える毎日になった。子供も、時代の影響を強く受ける。政治に無関心な大人にはならないでほしい。そのために戦争の記憶を伝えたい。

太平洋戦争開戦は2歳だった。敵機の高度に届かないサーチライトや高射砲をもどかしく思ったのが、人生最初の記憶である。両親が兄達の学童疎開を嫌って、家族で枚方市長尾の農家の離れに疎開した。しかし、安全なはずの疎開先にも、連日空襲警報のサイレンがなり響く戦況となった。敵機は、帽子に眼鏡のアメリカ兵の顔がはっきり見えるほど低空を飛んできた。防空壕を掘ったが、水が溜まり役に立たなかった。木製机の上に布団を被せ、その中に避難した。焼夷弾から身を守れるはずもなく、気休めにすぎないが、家族全員揃っている夜は死への恐怖が和らいだ。

国民学校に入学。集団登校で校門へ入るとまず皇居のある東へ一礼、回れ右して二宮金次郎像と運動場角の奉安殿に拝礼して教室に入った。終戦となる夏休みまでの数ヶ月間、戦況はさらに悪化。警報が鳴るたび、防空頭巾を被り校舎横の竹藪で身を伏せたり、下校したり、勉強どころではなかった。
宿題も「どんぐり集め」に「干草作り」、勉強と無縁だった。紙が不足し、小さい薄紙に描いた愛国心あふれる絵は、日の丸戦闘機と家に揚げた国旗とおかっぱ頭の自分の姿だった。玉音放送を聴いた翌朝は、夜家族と再会できないのでは、の不安から解放されて嬉しかった。

戦後間もなく、村外れの、もと養鶏場に転居した。トタン屋根で天井が低く、不便だったが、気兼ねはなくなった。筵を敷き、降るような星空を満喫した。自由を奪った戦争も星空だけは残してくれた。しかし、空腹地獄はさらにひどくなった。配給の米の欠配が続き、煎った米糠を食べたが、パサパサして飲み込みづらく喉が痛かった。臭くてまずい鯨肉やエイ、アメリカから届く代用食(トウモロコシ粉、干芋の角切り、ウイロ(煮るととろみが付く灰色の粉))で命をつないだ。砂糖はなく、サッカリン、ズルチンなど舐めると苦い錠剤で甘みをつけた。借りた畑を開墾し、収穫した護国芋は、大きい(赤ちゃんの頭大)だけで甘くないサツマイモ。主食として朝昼晩食べたが、米糠よりマシだった。イナゴ、ウシガエルも食べた。給食はコップ一杯の脱脂粉乳や小さな盃一杯のピーナッツ。空腹は満たせなかった。疎開者の私は、持参した蒸し芋を食べることが恥ずかしく、食べに帰るふりをして時間を潰した。毎日ひもじい思いをしたことを両親には最後まで言えなかった。

連日のように一家心中が報じられていた当時、母が勤めはじめ、たまに夕食でご馳走が並ぶと、最後の晩餐ではないかと怯えた。
ひもじくてビクビク怯える毎日だった。子供たちに同じ体験をしてもらいたくない。戦争の無い世の中が続くことを願っている。

へいわへのねがい

だいとうし Yさん 87さい

たのしいはずのようしょうきが、たいせつなかぞくとのわかれにおびえ、ひもじさにたえるまいにちになった。こどもも、じだいのえいきょうをつよくうける。せいじにむかんしんなおとなにはならないでほしい。そのためにせんそうのきおくをつたえたい。

たいへいようせんそうかいせんは2さいだった。てききのこうどにとどかないさーちらいとやこうしゃほうをもどかしくおもったのが、じんせいさいしょのきおくである。りょうしんがあにたちのがくどうそかいをきらって、かぞくでひらかたしながおののうかのばなれにそかいした。しかし、あんぜんなはずのそかいさきにも、れんじつくうしゅうけいほうのさいれんがなりひびくせんきょうとなった。てききは、ぼうしにめがねのあめりかへいのかおがはっきりみえるほどていくうをとんできた。ぼうくうごうをほったが、みずがたまりやくにたたなかった。もくせいつくえのうえにふとんをかぶせ、そのなかにひなんした。しょういだんからみをまもれるはずもなく、きやすめにすぎないが、かぞくぜんいんそろっているよるはしへのきょうふがやわらいだ。

こくみんがっこうににゅうがく。しゅうだんとうこうでこうもんへはいるとまずこうきょのあるひがしへいちれい、まわれみぎしてにのみやきんじろうぞうとうんどうじょうかどのほうあんでんにはいれいしてきょうしつにはいった。しゅうせんとなるなつやすみまでのすうかげつかん、せんきょうはさらにあっか。けいほうがなるたび、ぼうくうずきんをかぶりこうしゃよこのたけやぶでみをふせたり、げこうしたり、べんきょうどころではなかった。
しゅくだいも「どんぐりあつめ」に「ほしくさづくり」、べんきょうとむえんだった。かみがふそくし、ちいさいうすがみにえがいたあいこくしんあふれるえは、ひのまるせんとうきといえにあげたこっきとおかっぱあたまのじぶんのすがただった。ぎょくおんほうそうをきいたよくあさは、よるかぞくとさいかいできないのでは、のふあんからかいほうされてうれしかった。

せんごまもなく、むらはずれの、もとようけいじょうにてんきょした。とたんやねでてんじょうがひくく、ふべんだったが、きがねはなくなった。むしろをしき、ふるようなほしぞらをまんきつした。じゆうをうばったせんそうもほしぞらだけはのこしてくれた。しかし、くうふくじごくはさらにひどくなった。はいきゅうのこめのけっぱいがつづき、いったこめぬかをたべたが、ぱさぱさしてのみこみづらくのどがいたかった。くさくてまずいげいにくやえい、あめりかからとどくだいようしょく(とうもろこしこ、ほしいものかくぎり、ういろ(にるととろみがつくはいいろのこな))でいのちをつないだ。さとうはなく、さっかりん、ずるちんなどなめるとにがいじょうざいであまみをつけた。かりたはたけをかいこんし、しゅうかくしたごこくいもは、おおきい(あかちゃんのあたまだい)だけであまくないさつまいも。しゅしょくとしてあさひるばんたべたが、こめぬかよりましだった。いなご、うしがえるもたべた。きゅうしょくはこっぷいっぱいのだっしふんにゅうやちいさなさかずきいっぱいのぴーなっつ。くうふくはみたせなかった。そかいしゃのわたしは、じさんしたむしいもをたべることがはずかしく、たべにかえるふりをしてじかんをつぶした。まいにちひもじいおもいをしたことをりょうしんにはさいごまでいえなかった。

れんじつのようにいっかしんじゅうがほうじられていたとうじ、ははがつとめはじめ、たまにゆうしょくでごちそうがならぶと、さいごのばんさんではないかとおびえた。
ひもじくてびくびくおびえるまいにちだった。こどもたちにおなじたいけんをしてもらいたくない。せんそうのないよのなかがつづくことをねがっている。

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