

戦争の記憶を次世代に伝え、平和への想いを未来へつなげるために
組合員さんから寄稿いただいた、戦争体験談をご紹介します。
掲載年:2026年
四條畷市 Nさん 89歳
敗戦の年、私は9歳。熊本と鹿児島を結ぶ鉄道の小さな駅のある松橋町の外れに住んでいた。軍関係の施設もない田舎の小さな町もアメリカ軍の焦土作戦で、空襲が続き、真っ黒なガレキの原になった。
学校は死者とけが人の収容所で、授業はなく、毎日生き延びることが課題だった。私の家は町外れの田んぼの中にあったが、アメリカ軍機は、私の家の上を低空飛行して、逃げる私や家族に機銃掃射をかけてきた。ダダダダダ!!私は防空壕に転がり込んだ。防空壕の入り口で、杖をついて、やっと防空壕にたどり着いた祖母を、私は押しのけて先に逃げ込んだ。こんなことをした罪悪感が、その後ずっと私の中に残った。その時のアメリカ兵の銃の操作がもう少し上手だったら、私は生きて今体験記を書くことはなかった。私の体験を聞いて、なんだ、けっこう死なないですむものだと思わないでほしい。死んだ人は体験記を書けないにすぎない。
駅が爆撃されたとき、駅の待合室の長椅子にいた人々は、とっさに椅子の下に身を伏せたが、この長椅子の下は仕切りがあり、仕切りの爆風と反対側の人は助かり、爆風側の人たちは全員爆風で内臓が飛びだして亡くなったと聞いた。
女学校4年の姉は毎日兵器づくり、そこが爆撃された。一人の女生徒は胴体が切れて、「殺してくれ」と言っていたと聞いた。これらの話はその後長く、恐怖体験として、私の中に生々しく残り続けた。
食べ物がなかった。日本中あちこちに餓死者の姿があった。私の町にも。道のわきに横たわるおじさんのお腹の皮と背中の皮との間が5センチほどしかなかった。胸は肋骨があるため、やたらと高くなっていた。
私の家には畑があり、サツマイモを植えていたので死なずに済んだ。米は敗戦後、数年食べられなかった。日々の食事は、お汁の中に何かが浮かんでいるものだった。そんななか、母は自分の茶碗からつまんだものを私のお椀に入れて食べさせようとした。働きづめに働いて、敗戦後、結核で死んだが、食べ物のない栄養状態の悪さをもたらした戦争が、母を死に追いやった一因と思う。
ある日、一人の青年が私の家に来て、「天皇陛下のご命令で来ました。」と言った。戦争で心を病んだ帰還兵が、村や町にめずらしくなかった。
敗戦の2年後、「あたらしい憲法のはなし」という小冊子が学校で全員に配られた。憲法前文の不戦の誓い、九条の戦争放棄、当時6年生だった私は、魂が震えるような感動をもって読んだ。決して戦争してはいけませんと、校長先生が朝礼の挨拶で全校生徒に言われたこともあった。さわやかな凛とした雰囲気が日本中にあった。今の日本には、あの澄んだ雰囲気はない。
しじょううなわてし Nさん 89さい
はいせんのとし、わたしは9さい。くまもととかごしまをむすぶてつどうのちいさなえきのあるまつばせまちのはずれにすんでいた。ぐんかんけいのしせつもないいなかのちいさなまちもあめりかぐんのしょうどさくせんで、くうしゅうがつづき、まっくろながれきのはらになった。
がっこうはししゃとけがにんのしゅうようじょで、じゅぎょうはなく、まいにちいきのびることがかだいだった。わたしのいえはまちはずれのたんぼのなかにあったが、あめりかぐんきは、わたしのいえのうえをていくうひこうして、にげるわたしやかぞくにきじゅうそうしゃをかけてきた。だだだだだ‼わたしはぼうくうごうにころがりこんだ。ぼうくうごうのいりぐちで、つえをついて、やっとぼうくうごうにたどりついたそぼを、わたしはおしのけてさきににげこんだ。こんなことをしたざいあくかんが、そのごずっとわたしのなかにのこった。そのときのあめりかへいのじゅうのそうさがもうすこしじょうずだったら、わたしはいきていまたいけんきをかくことはなかった。わたしのたいけんをきいて、なんだ、けっこうしなないですむものだとおもわないでほしい。しんだひとはたいけんきをかけないにすぎない。
えきがばくげきされたとき、えきのまちあいしつのながいずにいたひとびとは、とっさにいすのしたにみをふせたが、このながいすのしたはしきりがあり、しきりのばくふうとはんたいがわのひとはたすかり、ばくふうがわのひとたちはぜんいんばくふうでないぞうがとびだしてなくなったときいた。
じょがっこう4ねんのあねはまいにちへいきづくり、そこがばくげきされた。ひとりのじょせいとはどうたいがきれて、「ころしてくれ」といっていたときいた。これらのはなしはそのあとながく、きょうふたいけんとして、わたしのなかになまなましくのこりつづけた。
たべものがなかった。にほんじゅうあちこちにがししゃのすがたがあった。わたしのまちにも。みちのわきによこたわるおじさんのおなかのかわとせなかのかわとのあいだが5せんちほどしかなかった。むねはろっこつがあるため、やたらとたかくなっていた。
わたしのいえにははたけがあり、さつまいもをうえていたのでしなずにすんだ。こめははいせんご、すうねんたべられなかった。ひびのしょくじは、おしるのなかになにかがうかんでいるものだった。そんななか、はははじぶんのちゃわんからつまんだものをわたしのおわんにいれてたべさせようとした。はたらきづめにはたらいて、はいせんご、けっかくでしんだが、たべもののないえいようじょうたいのわるさをもたらしたせんそうが、ははをしにおいやったいちいんとおもう。
あるひ、ひとりのせいねんがわたしのいえにきて、「てんのうへいかのごめいれいできました。」といった。せんそうでこころをやんだきかんへいが、むらやまちにめずらしくなかった。
はいせんの2ねんご、「あたらしいけんぽうのはなし」というしょうさっしががっこうでぜんいんにくばられた。けんぽうぜんぶんのふせんのちかい、きゅうじょうのせんそうほうき、とうじ6ねんせいだったわたしは、たましいがふるえるようなかんどうをもってよんだ。けっしてせんそうしてはいけませんと、こうちょうせんせいがちょうれいのあいさつでぜんこうせいとにいわれたこともあった。さわやかなりんとしたふんいきがにほんじゅうにあった。いまのにほんには、あのすんだふんいきはない。
・空襲(くうしゅう)
敵の飛行機が町や村に爆弾を落とすこと。一般の人々がケガをしたり、たくさんの人が亡くなった。
・機銃掃射(きじゅうそうしゃ)
飛行機などにつけられた機関銃で、地上や目標に向かってなぎ払うように弾を撃つこと。
・防空壕(ぼうくうごう)
敵の飛行機が来た時に、身を守るために入る地中に掘った穴。安全に避難できる場所と考えられていた。
・結核(けっかく)
ばい菌がうつっておこる病気。肺が病気になることが多く、せきや熱が出る。今は薬で治すことができる。
・帰還兵(きかんへい)
戦地や外国から日本へ帰ってきた兵士のこと。
・あたらしい憲法(けんぽう)のはなし
1947(昭和22)年に文部省(現在の文部科学省)が新制中学校1年生向けに発行した社会科の副読本(教科書)