

戦争の記憶を次世代に伝え、平和への想いを未来へつなげるために
組合員さんから寄稿いただいた、戦争体験談をご紹介します。
掲載年:2026年
寝屋川市 Mさん 87歳
昨年、寄稿されて居た方とは年齢も同じ生まれも同じ岡山県と云う事で、読んで行くうちに当時の事が鮮明に想い出されて来ました。父は国鉄(現在のJR)からビルマに招集されました。私が4歳の時と聞いて居りました。ラジオから軍歌「勝って来るぞと勇ましく 誓って国を出たからは手柄立てずに死なりょうか進軍ラッパ聞く度に瞼に浮かぶ旗の波」との曲がラジオから流れて来ると必ず祖母が泣いて居たのを覚えています。
いよいよ戦火が激しくなり、昼夜を問わずB29の攻撃が続いた。突然の警戒警報から直ぐに空襲警報と変わった。母は灯火管制で電球から灯りが外に洩れ無い様に風呂敷をかぶせ、私達は直ぐに飛び起きて(常に服のままで寝て居た)枕元に置いている防空頭巾(綿が入った頭巾。子供達に母が縫ってくれた物)をかぶって、手を引かれて高台に逃げた。高台から遠く市内の方を見下すと、まるで火の粉の雨が降っている様にB29からの無差別の射撃と同時に街は火の海と化して行った。
空襲警報が解除となり暗い夜道を又自宅へと帰りました。さいわい我が家は戦火を免れる事が出来た。
裏庭に掘っていた防空壕も一度も入る事は無かった。
昭和20年8月15日、日本の無条件降伏を我が家のラジオから天皇陛下から玉音放送が有り「耐え難きを耐え忍び難きを忍び以て万世の為に太平を開かんと欲す~」を近所の人達が我が家に集って両手をついて頭をたれて一緒に聞いて居たのを子供心に覚えて居ます。長かった戦争がこれでやっと終わったんだ、もう逃げなくて良いんだと国民はホッと安堵して居た。
しかしその後の食料難は厳しかった。母と長姉は着物を持って物々交換に行き、頭を下げてもらい得られた貴重なお米も、汽車の中では身体に巻きつけて隠しておか無いと常に憲兵が調べて廻って見つかれば没収される。僅かな配給米ではおかゆすら満足に食べられ無い状況で、闇米に頼らざるを得ない状態で有り作られそれすら御法度。そんな理不尽な世の中で有っても誰一人異議申し立てる事など出来無い時代だった。そんな時代を知って居るので食べ物は絶対無駄には出来ません。さいわい父は無事復員して来ました。
空襲で家を焼かれた時の為にと着物を裏庭に掘っていた防空壕に入れていたのが、雨が入り込んで水浸しになって色が染まったので駄目になって嘆いて居たのを覚えて居ります。
戦争は人間と人間の殺し合い。今現在でも世界では多くの国が戦争をやって居る。その犠牲は常に子供達なのだ。大切に育てた息子を、大切な夫を、赤紙一枚で家族から奪ってしまう戦争は二度と起こしてはならない。
ねやがわし Mさん 87さい
さくねん、きこうされていたかたとはねんれいもおなじうまれもおなじおかやまけんということで、よんでいくうちにとうじのことがせんめいにおもいだされてきました。ちちはこくてつ(げんざいのじぇいあーる)からびるまにしょうしゅうされました。わたしが4さいのときときいておりました。らじおからぐんか「かってくるぞといさましくちかってくにをでたからはてがらたてずにしなりょうかしんぐんらっぱきくたびにまぶたにうかぶはたのなみ」このきょくがらじおからながれてくるとかならずそぼがないていたのをおぼえています。
いよいよせんかがはげしくなり、ちゅうやをとわずびー29のこうげきがつづいた。とつぜんのけいかいけいほうからすぐにくうしゅうけいほうとかわった。はははとうかかんせいででんきゅうからあかりがそとにもれないようにふろしきをかぶせ、わたしたちはすぐにとびおきて(つねにふくのままでねていた)まくらもとにおいているぼうくうずきん(わたがはいったずきん。こどもたちにははがぬってくれたもの)をかぶって、てをひかれてたかだいににげた。たかだいからとおくしないのほうをみくだすと、まるでひのこのあめがふっているようにびー29からのむさべつのしゃげきとどうじにまちはひのうみとかしていった。
くうしゅうけいほうがかいじょとなりくらいよみちをまたじたくへとかえりました。さいわいわがやはせんかをまぬがれることができた。うらにわにほっていたぼうくうごうもいちどもはいることはなかった。
しょうわ20ねん8がつ15にち、にほんのむじょうけんこうふくをわがやのらじおからてんのうへいかからぎょくおんほうそうがあり「たえがたきをたえしのびがたきをしのびもてまんせいのためにたいへいをひらかんとほっす~」をきんじょのひとたちがわがやにつどってりょうてをついてあたまをたれていっしょにきいていたのをこどもこころにおぼえています。ながかったせんそうがこれでやっとおわったんだ、もうにげなくてよいんだとこくみんはほっととあんどしていた。
しかしそのあとのしょくりょうなんはきびしかった。ははとちょうしはきものをもってぶつぶつこうかんにいき、あたまをさげてやっとえられたきちょうなおこめも、きしゃのなかではからだにまきつけてかくしておかないとつねにけんぺいがしらべてまわっていてみつかればぼっしゅうされる。わずかなはいきゅうまいではおかゆすらまんぞくにたべられないじょうきょうで、やみまいにたよらざるをえないじょうさかいでありながらもそれすらごはっと。そんなりふじんなよのなかであってもだれひとりいぎもうしたてることなどできないじだいだった。そんなじだいをしっておるのでたべものはぜったいむだにはできません。さいわいちちはぶじふくいんしてきました。
くうしゅうでいえをやかれたときのためにときものをうらにわにほっていたぼうくうごうにいれていたのが、あめがはいりこんでみずびたしになっていろがそまったのでだめになってなげいていたのをおぼえております。
せんそうはにんげんとにんげんのころしあい。いまげんざいでもせかいではおおくのくにがせんそうをやっておる。そのぎせいはつねにこどもたちなのだ。たいせつにそだてたむすこを、たいせつなおっとを、あかがみいちまいでかぞくからうばってしまうせんそうはにどとおこしてはならない。
・ビルマ
今のミャンマーという国の昔の名前。第二次世界大戦中、日本軍はビルマへ進み、そこで多くの戦いが行われた。
・軍歌(ぐんか)
お国のためや、兵隊さんを応援するために歌う歌。みんなで声を合わせて歌う。
・B29
戦争中に日本の街を攻撃するために使われた、アメリカの巨大な飛行機(爆撃機)のこと。東京や大阪などの大きな街にたくさんの爆弾を落としたり、広島と長崎に原子爆弾を落とした飛行機。
・警戒警報(けいかいけいほう)
敵の飛行機が近づいているおそれがあるときに出される知らせ。聞いた人は、避難の準備をした。
・空襲警報(くうしゅうけいほう)
空から敵の飛行機が来るかもしれない時に町の人に知らせるサイレン音。聞いた人は、安全な場所に避難したり、身を守ったりした。
・灯火菅制(とうかかんせい)
夜に敵の飛行機から町が見えないように、家や建物の明かりを消したり、もれないように覆ったりすること。空襲への備えとして行われた。
・防空頭巾(ぼうくうずきん)
空からの攻撃のときの落下物から頭を守るためにかぶる木綿布の帽子。太平洋戦争末期の日本で使われた。
・防空壕(ぼうくうごう)
敵の飛行機が来た時に、身を守るために入る地中に掘った穴。安全に避難できる場所と考えられていた。
・無条件降伏(むじょうけんこうふく)
負けた国が、自分から条件を出さずに相手の決めた内容を受け入れて戦争を終わらせること。日本は1945(昭和20)年に無条件降伏を受け入れた。
・玉音放送(ぎょくおんほうそう)
1945年8月15日、日本の国民みんなに、戦争が終わったことを伝えるために、天皇陛下がラジオで話をした放送のこと。「玉音」とは天皇陛下の声のことを、ていねいに言った言葉。
・憲兵(けんぺい)
軍隊の中の警察のような役目をする人のこと。軍の決まりを守らせたり、人々を調べたりする仕事をしていた。
・配給米(はいきゅうまい)
戦争で物資不足だったので、食べものや服などを公平に家族の人数にあわせて配られた米。ただ量には限りがあり、十分な量をもらえないこともあった。
・闇米(やみまい)
戦後の食糧不足の中で、国の決まりによる配給以外に、ひそかに売買されたお米のこと。
・御法度(ごはっと)
「してはいけない」と決められていること。禁止。
・復員(ふくいん)
戦争が終わったあと、兵士が軍隊をやめて家やふるさとへ戻ること。
・赤紙(あかがみ)
「兵隊さんに選ばれた」ことを知らせる手紙。直接、町の役場の方が家まで持ってくる。赤い紙に書かれていることが多かった。