わたしの戦争体験集

わたしの戦争体験集

戦争の記憶を次世代に伝え、平和への想いを未来へつなげるために
組合員さんから寄稿いただいた、戦争体験談をご紹介します。

私の被爆体験

掲載年:2026年

大阪市住之江区 Kさん 84歳

私は4才2ヶ月の時、広島で被爆しました。
父と弟はその時に亡くなりました。
弟は私と一緒に遊んでいた近くで黒く焼けた姿で見つかりました。

父は消防署に勤務していて、丁度勤務あけで母とたずねて行くと父は帰ったといわれました。会えなかったです。
そのあと、奈良にいる消防署に勤務している孫が8時15分に帰れるわけがないと、2018年に広島の公文所に調べに行ってくれて、父は庁舎で爆死したとの事がわかりました。母と私は長い間帰る途中で亡くなったと思っていました。

母は被爆の事はあまり話してくれませんでした。父の事も孫が調べてくれなければ永久にわからない事でした。
私の身内は私から見て母方の祖父母、おじさん一家5人、父方のおじさんおばさんもどこで亡くなったのかわかりませんでした。
私は4才でくわしくは覚えていませんが母の後ろをついて行き焼跡を捜しました。
5才の時、母の再婚により私と胎内被爆の妹が大阪にきました。養父の方には兄、姉3人がいました、兄姉達は私をいじめました。妹は赤ちゃんなのでそのような事はなく、養父にはぎゃくたいもされましたが私はどうやら生きています。

今もウクライナ、ロシア、イスラエルなどで戦争がおきています。
どうか私の娘達、孫達、ひ孫達が永久に戦争のない平和な世の中であってほしいと願っております。

わたしのひばくたいけん

おおさかしすみのえく Kさん 84さい

わたしは4さい2かげつのとき、ひろしまでひばくしました。
ちちとおとうとはそのときになくなりました。
おとうとはわたしといっしょにあそんでいたちかくでくろくやけたすがたでみつかりました。

ちちはしょうぼうしょにきんむしていて、ちょうどきんむあけでははとたずねていくとちちはかえったといわれました。あえなかったです。
そのあと、ならにいるしょうぼうしょにきんむしているまごが8じ15ぷんにかえれるわけがないと、2018ねんにひろしまのくもんしょにしらべにいってくれて、ちちはちょうしゃでばくししたとのことがわかりました。ははとわたしはながいあいだかえるとちゅうでなくなったとおもっていました。

はははひばくのことはあまりはなしてくれませんでした。ちちのこともまごがしらべてくれなければえいきゅうにわからないことでした。
わたしのみうちはわたしからみてははかたのそふぼ、おじさんいっか5にん、ちちかたのおじさんおばさんもどこでなくなったのかわかりませんでした。
わたしは4さいでくわしくはおぼえていませんがははのうしろをついていきやきあとをさがしました。 5さいのとき、ははのさいこんによりわたしとたいないひばくのいもうとがおおさかにきました。ようふのほうにはあに、あね3にんがいました、けいしたちはわたしをいじめました。いもうとはあかちゃんなのでそのようなことはなく、ようふにはぎゃくたいもされましたがわたしはどうやらいきています。

いまもうくらいな、ろしあ、いすらえるなどでせんそうがおきています。
どうかわたしのむすめたち、まごたち、ひまごたちがえいきゅうにせんそうのないへいわなよのなかであってほしいとねがっております。

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