わたしの戦争体験集

わたしの戦争体験集

戦争の記憶を次世代に伝え、平和への想いを未来へつなげるために
組合員さんから寄稿いただいた、戦争体験談をご紹介します。

玉音放送がもう一日早ければ、何万人の命が助かったのに

掲載年:2026年

枚方市 Tさん 91歳

私は昭和9年生まれで91才です。昭和16年4月、愛媛県松山市の東雲国民学校に入学しました。何のことだかさっぱり理解出来ない校長先生の教育勅語を最敬礼で聴き、同年間もなく学校から、各家庭に封書が配られました。中に知らされたのは、老人と子供は一日も早く山奥に、親戚がある方は早急に疎開するようにとの連絡でした。親戚のない家庭は学校からの指示通り山奥のお寺に集団疎開に行くことになりました。大きなお寺は十名位で、小さなお寺は5、6人位でした。
新しいランドセルを背負って、一年生になった嬉しさもつかの間の出来ごとに、家族とも友人とも悲しい別れで、それぞれ疎開先に向いました。若い母親達はバケツに水を入れて防火訓練や竹槍で敵に向い殺す訓練のため、市内に残りました。

私は祖母と愛媛県温泉郡伊台村という、バスも通わぬ山奥の祖母の兄が住んでいる所にお世話になったのです。まずお寺の集団疎開は逃れましたが、下伊台の小学校まで片道4キロの山道を通学するのは、私にとって大変でした。幸い村には私と同級生が3人いて、松山市内から疎開してきた私を域下の子と云って優しくしてくれましたが、運動靴の配給もなく藁草履をはいて通学していました。冬の寒い時に別珍の足袋が雪でビショビショになり藁草履もすり切れ、足の指の霜やけが痛いし泣きそうな毎日でした。
下伊台の小学校に着くとすぐ小使いさんのおじさんの所に行ってすぐ別珍の足袋を薪ストーブの横の綱にかけ乾かしてもらいました。帰りには又この足袋を履いて帰らねばと授業中は素足でした。そして乾いた足袋ともう一つ持って来た藁草履をはいて又4キロの道のりを歩いて帰るのですが、空腹としもやけの痛さに耐えたあの頃を忘れることが出来ません。
世の中生きたくても生きることが出来なかった人がどんなに多いことか、あの戦争で生き延びた幸運をまず思います。

戦争は人と人との殺し合いです。あの8月15日の終戦を告げる玉音放送がもう一日早ければ、何万人の兵隊さんや日本国民の命が助かったのにと残念に思います。

私は子供の頃から日本は神の国でいざとなると神風が吹くと云われ、私も本当かしらと思い乍ら信じていました。でも地球儀を見る度にあの大きなアメリカにくらべ、日本は煮干しのじゃこが一匹海の上に浮いているような小さな国の日本が本当に戦争に勝てるのかと不安もありました。やはり日本は神の国、神風に祈るしかなかった私達は最後まで神風を信じたのです。でも最後まで待っても神風は吹きませんでした。
玉音放送を聴き、祖母は正座して泣いていましたが私は泣けませんでした。5年生になっていたのに自分のことしか考えなかったのです。もう明日から電燈も黒い布をかけなくてもいいし、B29も来ることもなく防空頭巾もいらないし、この年から学校は6・3・3制になり、早く松山に帰り中学に行くのだと自分勝手なことばかり思っている非国民でした。

シベリア抑留から帰還した99才の老人、イワノフカ村の元村長は良い言葉を残してくれました。「私と皆さんは国は違うが、太陽と水と空気を共有している仲間だから戦争はしてはいけない」と訢えたのです。この言葉の通りです。共感しました。
この言葉を今、ロシアの大統領に伝えたいと心から思いました。

私の5年間の疎開生活はひもじさに負けて山に住む動物と同じことをしていたのです。食べられるものは何でも食べた。蝗(いなご)も食べた、田にしも池に浮いてる菱の実も椎の実も、山柿、あけび、いたどり、雑草の芽(つんばな)、山いちご、かんころ餅これは本当に美味しかった。木登りも上手になった。私に生きる力と根性を教えてくれた時期でもあった。令和の今、物価高騰の時あの時代があったからこそ節約上手な91才の婆さんが生きています。

ぎょくおんほうそうがもういちにちはやければ、なんまんにんのいのちがたすかったのに

ひらかたし Tさん 91さい

わたしはしょうわ9ねんうまれで91さいです。しょうわ16ねん4がつ、えひめけんまつやましのしののめこくみんがっこうににゅうがくしました。なんのことだかさっぱりりかいできないこうちょうせんせいのきょういくちょくごをさいけいれいできき、どうねんまもなくがっこうから、かくかていにふうしょがくばられました。なかにしらされたのは、ろうじんとこどもはいちにちもはやくやまおくに、しんせきがあるかたはさっきゅうにそかいするようにとのれんらくでした。しんせきのないかていはがっこうからのしじどおりやまおくのおてらにしゅうだんそかいにいくことになりました。おおきなおてらはじゅうめいくらいで、ちいさなおてらは5、6にんくらいでした。
あたらしいらんどせるをせおって、いちねんせいになったうれしさもつかのまのできごとに、かぞくともゆうじんともかなしいわかれで、それぞれそかいさきにむいました。わかいははおやたちはばけつにみずをいれてぼうかくんれんやたけやりでてきにむかいころすくんれんのため、しないにのこりました。

わたしはそぼとえひめけんおんせんぐんいだいむらという、ばすもかよわぬやまおくのそぼのあにがすんでいるところにおせわになったのです。まずおてらのしゅうだんそかいはのがれましたが、しもいだいのしょうがっこうまでかたみち4きろのやまみちをつうがくするのは、わたしにとってたいへんでした。さいわいむらにはわたしとどうきゅうせいが3にんいて、まつやましないからそかいしてきたわたしをいきしたのこといってやさしくしてくれましたが、うんどうぐつのはいきゅうもなくわらぞうりをはいてつうがくしていました。ふゆのさむいときにべっちんのたびがゆきでびしょびしょになりわらぞうりもすりきれ、あしのゆびのしもやけがいたいしなきそうなまいにちでした。
しもいだいのしょうがっこうにつくとすぐこづかいさんのおじさんのところにいってすぐべっちんのたびをまきすとーぶのよこのつなにかけかわかしてもらいました。かえりにはまたこのたびをはいてかえらねばとじゅぎょうちゅうはすあしでした。そしてかわいたたびともうひとつもってきたわらぞうりをはいてまた4きろのみちのりをあるいてかえるのですが、くうふくとしもやけのいたさにたえたあのころをわすれることができません。
よのなかいきたくてもいきることができなかったひとがどんなにおおいことか、あのせんそうでいきのびたこううんをまずおもいます。

せんそうはひととひととのころしあいです。あの8がつ15にちのしゅうせんをつげるぎょくおんほうそうがもういちにちはやければ、なんまんにんのへいたいさんやにほんこくみんのいのちがたすかったのにとざんねんにおもいます。

わたしはこどものころからにほんはかみのくにでいざとなるとかみかぜがふくといわれ、わたしもほんとうかしらとおもいながらしんじていました。でもちきゅうぎをみるたびにあのおおきなあめりかにくらべ、にぼしのじゃこがいっぴきうみのうえにういているようなちいさなくにのにほんがほんとうにせんそうにかてるのかとふあんもありました。やはりにほんはかみのくに、かみかぜにいのるしかなかったわたしたちはさいごまでかみかぜをしんじたのです。でもさいごまでまってもかみかぜはふきませんでした。
ぎょくおんほうそうをきき、そぼはせいざしてないていましたがわたしはなけませんでした。5ねんせいになっていたのにじぶんのことしかかんがえなかったのです。もうあすからでんとうもくろいぬのをかけなくてもいいし、びー29もくることもなくぼうくうずきんもいらないし、このとしからがっこうは6・3・3せいになり、はやくまつやまにかえりちゅうがくにいくのだとじぶんかってなことばかりおもっているひこくみんでした。
しべりあよくりゅうからきかんした99さいのろうじん、いわのふかむらのもとそんちょうはよいことばをのこしてくれました。「わたしとみなさんはくにはちがうが、たいようとみずとくうきをきょうゆうしているなかまだからせんそうはしてはいけない」とうったえたのです。このことばのとおりです。きょうかんしました。
このことばをいま、ろしあのだいとうりょうにつたえたいとこころからおもいました。

わたしの5ねんかんのそかいせいかつはひもじさにまけてやまにすむどうぶつとおなじことをしていたのです。たべられるものはなにでもたべた。いなごもたべた、たにしもいけにういてるひしのみもしいのみも、やまがき、あけび、いたどり、ざっそうのめ(つんばな)、やまいちご、かんころもちこれはほんとうにおいしかった。きのぼりもじょうずになった。わたしにいきるちからとこんじょうをおしえてくれたじきでもあった。れいわのいま、ぶっかこうとうのときあのじだいがあったからこそせつやくじょうずな91さいのばあさんがいきています。

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