

戦争の記憶を次世代に伝え、平和への想いを未来へつなげるために
組合員さんから寄稿いただいた、戦争体験談をご紹介します。
掲載年:2026年
寝屋川市 Oさん 74歳

私の父は昭和18年、岐阜高等農林学校(現・岐阜大学)に在学中20歳のとき召集令状が来て学徒出陣で戦地に赴きました。
太平洋戦争末期に、徴兵が猶予されていた大学生などが兵力不足を補うため学業を中断して徴兵されたのです。
そんなに軍は人がなかったのかと?
その多くは特攻隊員として命を落とし、出陣者、死亡者数は不明です。
父はある日突然「行け!」の命令で、何がなんだか何処へ行くのかもわからず、学生服のまま輪送船に乗せられ鹿児島に行き、そこから三重まで来たということです。そして台湾へ向かう途中で敵潛水艦に魚雷で撃沈され危うく死ぬところだったと言ってました。
学生服のまま何時間か泳いで台湾に上陸して、なんらかの方向で部隊に編成されて(ここはちょっと記憶が曖昧です)、そのまま終戦を迎え、アメリカの船で日本に帰ることができました。
生き延びて帰ってきた日本は父の目にどう映ったのでしょうか。
「お国からの命令で兵隊さんになったけど戦争は二度としたらあかん!」と言っていました。
国がどんどん泥沼にはまって行ったこと、こんな不条理な時代があったことを後世に語り継ぎ、今の若い人たちにも知ってもらいたいと思い筆を取りました。
父が大事に保管していた写真集が見つかり、当時の出陣前の集合写真、また合間に戦争仲間達とくつろぐ写真もあります。
見ていると胸が痛んできます。二度とない青春をこんな事で費やすなんて。
勉学に勤しみ、日本の将来を担う若き学生たちが志半ばで戦場にかり出されたこと、散って行った人たち。その家族、特に我が子を送り出す母の気持ちは、いかばかりだったか計り知れません。
父は家庭で一切口にしたことはなく、私も特に興味を持ち合わせていませんでした。
今となっては「もっと聞いておけばよかった」と後悔しています。
現在100歳を越えて、施設でお世話になっている人や甥に話したことをまとめてみました。
今は切に争いのない平和を願うのみです。
ねやがわし Oさん 74さい
わたしのちちはしょうわ18ねん、ぎふこうとうのうりんがっこう(げん・ぎふだいがく)にざいがくちゅう20さいのときしょうしゅうれいじょうがきてがくとしゅつじんでせんちにおもむきました。
たいへいようせんそうまっきに、ちょうへいがゆうよされていただいがくせいなどがへいりょくぶそくをおぎなうためがくぎょうをちゅうだんしてちょうへいされたのです。
そんなにぐんはひとがなかったのかと?
そのおおくはとっこうたいいんとしていのちをおとし、しゅつじんしゃ、しぼうしゃすうはふめいです。
ちちはあるひとつぜん「いけ!」のめいれいで、なにがなんだかどこへいくのかもわからず、がくせいふくのままゆそうせんにのせられかごしまにいき、そこからみえまできたということです。そしてたいわんへむかうとちゅうでてきせんすいかんにぎょらいでげきちんされあやうくしぬところだったといってました。
がくせいふくのままなんじかんかおよいでたいわんにじょうりくして、なんらかのほうこうでぶたいにへんせいされて(ここはちょっときおくがあいまいです)、そのまましゅうせんをむかえ、あめりかのふねでにほんにかえることができました。
いきのびてかえってきたにほんはちちのめにどううつったのでしょうか。
「おくにからのめいれいでへいたいさんになったけどせんそうはにどとしたらあかん!」といっていました。
くにがどんどんどろぬまにはまっていったこと、こんなふじょうりなじだいがあったことをこうせいにかたりつぎ、いまのわかいひとたちにもしってもらいたいとおもいふでをとりました。
ちちがだいじにほかんしていたしゃしんしゅうがみつかり、とうじのしゅつじんまえのしゅうごうしゃしん、またあいまにせんそうなかまたちとくつろぐしゃしんもあります。
みているとむねがいたんできます。にどとないせいしゅんをこんなことでついやすなんて。
べんがくにいそしみ、にほんのしょうらいをになうわかきがくせいたちがこころざしなかばでせんじょうにかりだされたこと、ちっていったひとたち。そのかぞく、とくにわがこをおくりだすははのきもちは、いかばかりだったかはかりしれません。
ちちはかていでいっさいくちにしたことはなく、わたしもとくにきょうみをもちあわせていませんでした。
いまとなっては「もっときいておけばよかった」とこうかいしています。
げんざい100さいをこえて、しせつでおせわになっているひとやおいにはなしたことをまとめてみました。
いまはせつにあらそいのないへいわをねがうのみです。