

戦争の記憶を次世代に伝え、平和への想いを未来へつなげるために
組合員さんから寄稿いただいた、戦争体験談をご紹介します。
掲載年:2026年
大阪市住吉区 Mさん 94歳
昭和7年1月生まれ、94歳です。
当時13歳だった私の生死をわけた、今では信じられない体験を書きます。
神戸で生まれ、神戸の女学校へ通っていました。大東亜戦争が始まり、配属将校というのが、軍服サーベル姿で校内を歩き回っていました。軍国少女らしからぬ行動をすると、ひどく叱られました。
戦争が劣勢になり、大本営発表もほとんどデタラメでB29の空襲もあり、焼跡へ鉄クズ拾いにも行きました。
私の父(若い頃アメリカの大学で2年程、電機工学の勉強をしていた)が「この戦争には勝てないよ」ともらした事が知れ、憲兵に連れていかれ何日かして、全身傷だらけ、歩けない程痛めつけられて帰って来ました。
私が13歳の時、女子挺身隊として尼崎の軍需工場へ行く事になりました。工場ではハンマーで鉄の板を叩く練習ばかり、今思えば、戦争に役立つ事はもう何も無かったのでしょう。昼食は豆粕(牛や馬の餌にするもの)をぐつぐつ炊いた味も無いものでした。
ある日、工場に爆弾が落ちるからと、裏門を開けてみんないっせいに麦畑に逃げました。そこへ、アメリカの飛行機が急降下して、逃げまどう私達を狙って機銃掃射をします。すぐ頭の上まできて一人ずつ狙い射ちです。
私は、「もう死ぬ」と思って見上げると、機手がガムをかみながら嘲笑っているのをハッキリと見ました。
その時、誰かが私の足をひっぱり畦道のせまい防空壕へ入れてくれたのです。
中は、腰まで泥水がたまり、壁にはゲジゲジが這い回っていました。たまらなくなって出ようとするとその人が「死にたいんか!!」とかかえて止めてくれました。その後で、友人が何人か死んだ事を知りました。電車も止まり尼崎から神戸まで線路を歩き、大きい陸橋の上は渡れず、知らない道や水の浅い川を渡って数知れぬ屍を跨いで神戸へ向って歩きました。幼な子を抱いた母親の屍も見ました。
もう一度両親に会いたい一心で、頭の中は何を考える力もなくなり、私は幾度も転び倒れながら屍を跨ぎ、死にきれず苦しんでいる人をさけながら西へ西へと歩きました。
夜が明けて、やっと家にたどりついた私を両親が抱きしめて「もうどこへも行くな。死ぬならここでいっしょに死のう」と言ってくれました。
夏になり、戦争が終わり、集団疎開の妹もシラミだらけで帰って来ました。あの頃はみんなシラミに悩まされていたのを覚えています。駅の改札口で進駐軍がDDTという白い粉を一人ひとりに撒いて、みんな頭から真っ白になりました。
人が人を殺す世の中には、絶対になりませんように。
一人ひとりが笑って暮らせる世の中になる事を心より祈りつつ、私の戦争体験のほんの一部を、終わります。
おおさかしすみよしく Mさん 94さい
しょうわ7ねん1がつうまれ、94さいです。
とうじ13さいだったわたしのせいしをわけた、いまではしんじられないたいけんをかきます。
こうべでうまれ、こうべのじょがっこうへかよっていました。だいとうあせんそうがはじまり、はいぞくしょうこうというのが、ぐんぷくさーべるすがたでこうないをあるきまわっていました。ぐんこくしょうじょらしからぬこうどうをすると、ひどくしかられました。
せんそうがれっせいになり、だいほんえいはっぴょうもほとんどでたらめでびー29のくうしゅうもあり、やけあとへてつくずひろいにもいきました。
わたしのちち(わかいころあめりかのだいがくで2ねんほど、でんきこうがくのべんきょうをしていた)が「このせんそうにはかてないよ」ともらしたことがしれ、けんぺいにつれていかれなんにちかして、ぜんしんきずだらけ、あるけないほどいためつけられてかえってきました。
わたしが13さいのとき、じょしていしんたいとしてあまがさきのぐんじゅこうじょうへいくことになりました。こうじょうでははんまーでてつのいたをたたくれんしゅうばかり、いまおもえば、せんそうにやくだつことはもうなにもなかったのでしょう。ちゅうしょくはまめかす(うしやうまのえさにするもの)をぐつぐつたいたあじもないものでした。
あるひ、こうじょうにばくだんがおちるからと、うらもんをあけてみんないっせいにむぎばたけににげました。そこへ、あめりかのひこうきがきゅうこうかして、にげまどうわたしたちをねらってきじゅうそうしゃをします。すぐあたまのうえまできてひとりずつねらいうちです。
わたしは、「もうしぬ」とおもってみあげると、きしゅががむをかみながらあざけわらっているのをはっきりとみました。そのとき、だれかがわたしのあしをひっぱりあぜみちのせまいぼうくうごうへいれてくれたのです。
なかは、こしまでどろみずがたまり、かべにはげじげじがはいまわっていました。たまらなくなってでようとするとそのひとが「しにたいんか!!」とかかえてとめてくれました。そのあとで、ゆうじんがなんにんかしんだことをしりました。でんしゃもとまりあまがさきからこうべまでせんろをあるき、おおきいりっきょうのうえはわたれず、しらないみちやみずのあさいがわをわたってかずしれぬしかばねをまたいでこうべへむかってあるきました。おさなごをいだいたははおやのしかばねもみました。
もういちどりょうしんにあいたいいっしんで、あたまのなかはなにをかんがえるちからもなくなり、わたしはいくどもころびたおれながらしかばねをまたぎ、しにきれずくるしんでいるひとをさけながらにしへにしへとあるきました。
よるがあけて、やっといえにたどりついたわたしをりょうしんがだきしめて「もうどこへもいくな。しぬならここでいっしょにしのう」といってくれました。
なつになり、せんそうがおわり、しゅうだんそかいのいもうともしらみだらけでかえってきました。あのころはみんなしらみになやまされていたのをおぼえています。えきのかいさつぐちでしんちゅうぐんがでぃーでぃーてぃというしろいこなをひとりひとりにまいて、みんなあたまからまっしろになりました。
ひとがひとをころすよのなかには、ぜったいになりませんように。
ひとりひとりがわらってくらせるよのなかになることをこころよりいのりつつ、わたしのせんそうたいけんのほんのいちぶを、おわります。
・屍(しかばね)
亡くなった人の体。死体のことを昔風の言い方で表した言葉。
・大東亜戦争(だいとうあせんそう)
第二次世界大戦(アジア・太平洋戦争)という世界中の国が参加した戦争の一部で、日本はこの戦争を「大東亜戦争」と呼んでいた。
・配属将校(はいぞくしょうこう)
戦時中に学校へ派遣された軍隊の将校(軍の指導者)のこと。生徒たちに軍事訓練や戦争に関する指導を行った。
・軍服(ぐんぷく)サーベル
軍服は、兵士や将校が着る特別な服、サーベルは、将校が持っていた細長い剣のこと。戦うためだけでなく、地位や役目を表すためにも使われた。
・軍国少女(ぐんこくしょうじょ)
戦争中の教育の影響を受け、「国のためにがんばることが大切」と考えて生活していた少女のこと。
・大本営発表(だいほんえいはっぴょう)
戦争中に、日本の軍が国民へ伝えた戦争の公式な知らせのこと。ラジオや新聞で発表された。戦争が不利になると、本当の被害を少なく伝えたり、戦果を大きく伝えたりした。
・B29
戦争中に日本の街を攻撃するために使われた、アメリカの巨大な飛行機(爆撃機)のこと。東京や大阪などの大きな街にたくさんの爆弾を落としたり、広島と長崎に原子爆弾を落とした飛行機。
・空襲(くうしゅう)
敵の飛行機が町や村に爆弾を落とすこと。一般の人々がケガをしたり、たくさんの人が亡くなった。
・憲兵(けんぺい)
軍隊の中の警察のような役目をする人のこと。軍の決まりを守らせたり、人々を調べたりする仕事をしていた。
・女子挺身隊(じょしていしんたい)
戦争中、人手不足になった工場や農作業を手伝うために集められた女性たちのこと。主に若い女性が働き、飛行機や軍用品を作る工場などで仕事をした
・軍需工場(ぐんじゅこうじょう)
戦争の時に使う銃や爆弾、また兵隊さんの服などを作る工場のこと。
・機銃掃射(きじゅうそうしゃ)
飛行機などにつけられた機関銃で、地上や目標に向かってなぎ払うように弾を撃つこと。
・防空壕(ぼうくうごう)
敵の飛行機が来た時に、身を守るために入る地中に掘った穴。安全に避難できる場所と考えられていた。
・集団疎開(しゅうだんそかい)
空襲や火災から子どもたちを守るため、学校ごとに都会から農村や地方へ移り住むこと。
・進駐軍(しんちゅうぐん)
日本が戦争に負けた後、「もう二度と日本が戦争を起こさないように」という目的で、アメリカなどの国から来た軍隊のこと。進駐軍の施設は、大阪の淀屋橋周辺などにも置かれた。
・DDT(でぃーでぃーてぃ)
シラミやノミ、蚊などの害虫を退治するために使われた薬。