わたしの戦争体験集

わたしの戦争体験集

戦争の記憶を次世代に伝え、平和への想いを未来へつなげるために
組合員さんから寄稿いただいた、戦争体験談をご紹介します。

舞鶴にて

掲載年:2026年

交野市 Sさん 80歳

私の生まれた京都府舞鶴市には海軍工廠がありました。そのせいでB29の飛来が多かったようです。
昭和20年10月26日生まれの私は戦争体験はありません。父は身体障害者だったので出征経験はなく、軍服の縫製修繕の仕事をしておりました。母はB29の飛来のたびに大きなおなかをかかえて防空壕へ逃げたそうです。

昭和27、8年頃でした。私の通う小学校の児童が先生の引率の元、シベリアから復員される兵隊さんをお迎えに引揚船、高砂丸・興安丸が入港する桟橋へ行きました。
大変な歓声の中日の丸の小旗を持ち、かわいい息子、大切な夫、お父さん、兄や弟を出迎える人々でいっぱいでした。
ちぎれんばかりに日の丸の小旗をふり喜びの中、それぞれの家族が休憩される援護局の俄か作りの舞台で私達児童が歌やお遊戯を披露しました。逢えた喜び、逢えなかった淋しさ、それぞれの家族の様子の雰囲気で私は泣きながら歌を唄ったのがいつか見た夢のように思い出されます。
その中には何度舞鶴へ足を運んでもとうとうかわいい息子に逢えなかった悲しいお母さんの姿、歌謡曲「岸璧の母」は舞鶴が舞台で、本当の話です。

戦争は多くの人々を悲しみのどん底に落とすだけです、絶対にあってはならないのです。
ロシアとウクライナ、イスラエルとガザ、内戦状態の国もたくさんあります。いつも犠牲になるのは女性と子供達。

一日も早く世界中に平和が訪れることを願うばかりです。

まいづるにて

かたのし Sさん 80さい

わたしのうまれたきょうとふまいづるしにはかいぐんこうしょうがありました。そのせいでびー29のひらいがおおかったようです。
しょうわ20ねん10がつ26にちうまれのわたしはせんそうたいけんはありません。ちちはしんたいしょうがいしゃだったのでしゅっせいけいけんはなく、ぐんぷくのほうせいしゅうぜんのしごとをしておりました。はははびー29のひらいのたびにおおきなおなかをかかえてぼうくうごうへにげたそうです。

しょうわ27、8ねんころでした。わたしのかようしょうがっこうのじどうがせんせいのいんそつのもと、しべりあからふくいんされるへいたいさんをおむかえにひきあげせん、たかさごまる・こうあんまるがにゅうこうするさんばしへいきました。
たいへんなかんせいのなかひのまるのこばたをもち、かわいいむすこ、たいせつなおっと、おとうさん、あにやおとうとをでむかえるひとびとでいっぱいでした。
ちぎれんばかりにひのまるのこばたをふりよろこびのなか、それぞれのかぞくがきゅうけいされるえんごきょくのにわかづくりのぶたいでわたしたちじどうがうたやおゆうぎをひろうしました。あえたよろこび、あえなかったさびしさ、それぞれのかぞくのようすのふんいきでわたしはなきながらうたをうたったのがいつかみたゆめのようにおもいだされます。
そのなかにはなんどまいづるへあしをはこんでもとうとうかわいいむすこにあえなかったかなしいおかあさんのすがた、かようきょく「がんぺきのはは」はまいづるがぶたいで、ほんとうのはなしです。

せんそうはおおくのひとびとをかなしみのどんぞこにおとすだけです、ぜったいにあってはならないのです。
ろしあとうくらいな、いすらえるとがざ、ないせんじょうたいのくにもたくさんあります。いつもぎせいになるのはじょせいとこどもたち。

いちにちもはやくせかいじゅうにへいわがおとずれることをねがうばかりです。

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