

戦争の記憶を次世代に伝え、平和への想いを未来へつなげるために
組合員さんから寄稿いただいた、戦争体験談をご紹介します。
掲載年:2026年
大阪市住吉区 Hさん 75歳
私が生協の委員会活動に関わって、本部(現、京橋事務所)を訪れるようになった時の記憶です。
JR環状線の車窓から見える景色が、森之宮~京橋の区間に限り他とは異なっていることに違和感を持ちました。環状線の大阪城側の塀の隙間から見える錆びた鉄骨の巨大な残骸が、とても印象的だったからです。
後に、平和の学習会で、大阪城の辺り一帯が「東洋一」と言われた国内最大級の兵器工場・大阪陸軍造兵廠(砲兵工廠)があった跡地であることを知りました。
そして、大阪市民やスパイに砲兵工廠のことを隠し、知られないように、軍が環状線のその区間だけ高架にすることを許さなかったということも・・・。
1983年から大阪城公園内の整備により、現代の大阪城ホールの前に建っていた大阪砲兵工廠本館も、市民の遺構保存の反対を無視して大阪市によって廃除されたそうです。
私は今、「真実を知ることの大切さ」を、いろいろな場面で実感していますが、それは‶平和を守る″ことに繋がるのではないでしょうか?
おおさかしすみよしく Hさん 75さい
わたしがせいきょうのいいんかいかつどうにかかわって、ほんぶ(げん、きょうばしじむしょ)をおとずれるようになったときのきおくです。
じぇいあーるかんじょうせんのしゃそうからみえるけしきが、もりのみや~きょうばしのくかんにかぎりほかとはことなっていることにいわかんをもちました。かんじょうせんのおおさかじょうがわのへいのすきまからみえるさびたてっこつのきょだいなざんがいが、とてもいんしょうてきだったからです。
のちに、へいわのがくしゅうかいで、おおさかじょうのあたりいったいが「とうよういち」といわれたこくないさいだいきゅうのへいきこうじょう・おおさかりくぐんぞうへいしょう(ほうへいこうしょう)があったあとちであることをしりました。
そして、おおさかしみんやすぱいにほうへいこうしょうのことをかくし、しられないように、ぐんがかんじょうせんのそのくかんだけこうかにすることをゆるさなかったということも・・・。
1983ねんからおおさかじょうこうえんないのせいびにより、げんだいのおおさかじょうほーるのまえにたっていたおおさかほうへいこうしょうほんかんも、しみんのいこうほぞんのはんたいをむししておおさかしによってはいじょされたそうです。
わたしはいま、「しんじつをしることのたいせつさ」を、いろいろなばめんでじっかんしていますが、それは‶へいわをまもる″ことにつながるのではないでしょうか?