

戦争の記憶を次世代に伝え、平和への想いを未来へつなげるために
組合員さんから寄稿いただいた、戦争体験談をご紹介します。
掲載年:2026年
大阪市平野区 Sさん 93歳
兄は20歳。戦争が始まる迄貨物船の機関士の免許を持ち、親から船を買ってもらい友人の船長さんと色々な品物を船を使って商売をして一家の大黒柱として働いていましたが、戦争が始まると船は没収され陸軍から招集令状が来て出征しました。二、三年は面会も出来ず終戦が近づいた頃広島に異動すると云う便よりが有りまもなく敗戦となりました。ニュースでは広島が大変だと云う事で両親は仕事も手につかず一日千秋の思いで待って居りました。
敗戦して半年が過ぎた頃ひょっこりと軍服姿のまま帰って来た兄はやせて細く、見る影も無く落着も無く、どこでどうしていたのかと尋ねると広島に原爆が落ちる三日前に尾の道と云う所へ異動していたと云う事だけで其の後の事が何を尋ねても思い出せないとの事で、父母も戦争呆けだろうからそっとしてやろうと様子を見ていましたが、日増に兄のする事が何か違った事ばかりで、これは唯事でないとやっと気が付き、父母としては嫁入り前の娘が四人と兄の病気、とにかく脳外科を探してと、京都の宇治に脳外科医を尋ねて診て頂く事に成りましたが、兄は自分はどこも悪く無いと云い張って大変な事になりましたが友人の助けでやっと連れ出し見て頂きました。結果は最悪。脳に陥没の所が有りどうする事も出来ない。そく入院となり大変な金がいる事となり、祖父から頂いた山を売りながらいつ完治するともわからない兄を案じながら何年か過ぎました。
軍隊で強く殴られたか転んだか、本人が狂ってしまっていてわからず(負けず嫌いな兄でしたから)・・・。
父母は娘達を何んとか嫁に出してと、姉は25歳、私は20歳と順に送り出せたらとの事で苦しんで居りました。何んとか皆んな縁が有り落ち着くと、父母は自分達の死後の兄を案じ、傷疾軍人の手当が有る事を知りせめて何んとかならないものかと軍の方を尋ねたら軍は解散してしまって何もわからない状態ですからどうにもならず、時が過ぎすぎてどうする事も出来ず2,30年が過ぎ、私も父母の気持ちを思い檻の中の兄を思って、知事さんに手紙を書き母に県庁へ行ってもらいました。
知事さんは同郷の人で兄とは年令も近く、学生時代は相撲部で知合の仲間だとの事で話を聴いて頂き、病院の説明やら病状をしらべて国の方へ手続をして身体障害者の手続きをしてくれた様です。私達娘らも四人共、散々に縁が有りそれぞれの生活をしていました。父も70歳を過ぎ、母も大きな心配事を終えた頃、父が体調をくずしてその看護も母一人で心身共に疲れた事でしょう。
私も流産、妹達も子そだてと皆んな多忙な折、77才の父の死、母は、父母亡き後の養兄の保護者の心配で私に子供も無い事から何かと相談を受け、主人に許しを得て務める事になりました。その頃、兄は家に帰りたい一念で何度か施設を逃げ出し、夜、線路づたいに歩いていた所見つかり施設に連れもどされたり、狂人と一緒にくらすのがいやと、いじめに合って点々と施設を変わり、環境になれる迄の苦しみを思い腹が立つ前に戦争の為にこの苦しみを味わって、戦争はいやだといつも心で叫んでいました。
この度、コープから戦争体験の便りを頂きすぐ兄の事が浮び一晩で書きました。
兄は20歳から兵隊に行き、88才の年迄苦しい生涯を終りました。
今は安らかである事を祈る毎日です。
おおさかしひらのく Sさん 93さい
あには20さい。せんそうがはじまるまでかもつせんのきかんしのめんきょをもち、おやからふねをかってもらいゆうじんのせんちょうさんといろいろなしなものをふねをつかってしょうばいをしていっかのだいこくばしらとしてはたらいていましたが、せんそうがはじまるとふねはぼっしゅうされりくぐんからしょうしゅうれいじょうがきてしゅっせいしました。にさんねんはめんかいもできずしゅうせんがちかづいたころひろしまにいどうするというたよりがありまもなくはいせんとなりました。にゅーすではひろしまがたいへんだということでりょうしんはしごともてにつかずいちにちせんしゅうのおもいでまっておりました。
はいせんしてはんとしがすぎたころひょっこりとぐんぷくすがたのままかえってきたあにはやせてほそく、みるかげもなくらくちゃくもなく、どこでどうしていたのかとたずねるとひろしまにげんばくがおちるみっかまえにおのみちというところへいどうしていたということだけでそのあとのことがなにをたずねてもおもいだせないとのことで、ふぼもせんそうぼけだろうからそっとしてやろうとようすをみていましたが、ひましにあにのすることがなにかちがったことばかりで、これはただごとでないとやっときがつき、ふぼとしてはよめいりまえのむすめがよにんとあにのびょうき、とにかくのうげかをさがしてと、きょうとのうじにのうげかいをたずねてみていただくことになりましたが、あにはじぶんはどこもわるくないといいはってたいへんなことになりましたがゆうじんのたすけでやっとつれだしみていただきました。けっかはさいあく。のうにかんぼつのところがありどうすることもできない。そくにゅういんとなりたいへんなかねがいることとなり、そふからいただいたやまをうりながらいつかんちするともわからないあにをあんじながらなんねんかすぎました。
ぐんたいでつよくなぐられたかころんだか、ほんにんがくるってしまっていてわからず(まけずきらいなあにでしたから)・・・。
ふぼはむすめたちをなんとかよめにだしてと、あねは25さい、わたしは20さいとじゅんにおくりだせたらとのことでくるしんでおりました。なんとかみんなえんがありおちつくと、ふぼはじぶんたちのしごのあにをあんじ、しょういぐんじんのてあてがあることをしりせめてなんとかならないものかとぐんのほうをたずねたらぐんはかいさんしてしまってなにもわからないじょうたいですからどうにもならず、ときがすぎすぎてどうすることもできず2,30ねんがすぎ、わたしもふぼのきもちをおもいおりのなかのあにをおもって、ちじさんにてがみをかきははにけんちょうへいってもらいました。
ちじさんはどうきょうのひとであにとはねんれいもちかく、がくせいじだいはすもうぶでしりあいのなかまだとのことではなしをきいていただき、びょういんのせつめいやらびょうじょうをしらべてくにのほうへてつづきをしてしんたいしょうがいしゃのてつづきをしてくれたようです。わたしたちむすめらもよにんとも、さんざんにえんがありそれぞれのせいかつをしていました。ちちも70さいをすぎ、ははもおおきなしんぱいごとをおえたころ、ちちがたいちょうをくずしてそのかんごもははひとりでしんしんともにつかれたことでしょう。
わたしもりゅうざん、いもうとたちもこそだてとみんなたぼうなおり、77さいのちちのし、ははは、ふぼなきあとのようあにのほごしゃのしんぱいでわたしにこどももないことからなにかとそうだんをうけ、しゅじんにゆるしをえてつとめることになりました。そのころ、あにはいえにかえりたいいちねんでなんどかしせつをにげだし、よる、せんろづたいにあるいていたところみつかりしせつにつれもどされたり、きょうじんといっしょにくらすのがいやと、いじめにあっててんてんとしせつをかわり、かんきょうになれるまでのくるしみをおもいはらがたつまえにせんそうのためにこのくるしみをあじわって、せんそうはいやだといつもこころでさけんでいました。
このたび、こーぷからせんそうたいけんのたよりをいただきすぐあにのことがうかびいちばんでかきました。
あには20さいからへいたいにいき、88さいのとしまでくるしいしょうがいをおわりました。
いまはやすらかであることをいのるまいにちです。