

戦争の記憶を次世代に伝え、平和への想いを未来へつなげるために
組合員さんから寄稿いただいた、戦争体験談をご紹介します。
掲載年:2026年
大阪市阿倍野区 Kさん 89歳
私が終戦を迎えたのは四年生の時だった。その前年、昭和19年の五月に叔父のいる兵庫県氷上郡(丹波)へ家族で疎開した。祖母、母、私、妹、弟、兄弟5人の7人でいなかぐらしが始まった。
父は仕事の出張先の青島(チンタオ)から出征しどこへいったのかも知らなかった。学校は3年女子組で20名位で先生は2、3人しかいなかった。
授業はなくて毎日校庭に畑を作りカボチャを植えた。草引きするのも初めてでしんどかった。
「都会もん」といっていじめられたりけられたりしたががまんした。食糧難になり母は着物を米やサツマイモと交換する為農家へたのみにいきわずかに食べ物をもらってきた。うすいおかゆに、よめななどの野草を入れ、いものツルも食べた。いつもおなかがすいてつらかった。
頭の上をB29の大きな飛行機が低く飛び、夜になると大阪の方面の空がまっ赤になり「空襲や」と母がいった。広島に原爆が落ちてたくさんの人が一瞬にして亡くなったのは母に新聞を読んでもらった時、もうじき私達も死ぬのかもしれないと思うとこわかった。
やがて終戦の日、何か知らないがお向かいのタバコ屋さんの家に近所の人が集まってラジオを聞いた。「戦争が終ったんや」と誰かがいった。そういえば今朝からB29が頭の上を飛ばないなと思い、何となくほっとしたのをおぼえている。慰霊隊が来る時は生徒は校門の前に整列した。兵隊服の人の胸に白い布で包まれた遺骨を持たれ戦死されたんだと思った。それは毎日のように慰霊隊の行列があった。子供の手で千人針をいっぱい縫った思い出もあり兵隊さんは弾に当たらないようにと思っていたのに、と思った。
シベリアに抑留されていた父が興安丸の引き揚げ船で帰ってきたのはその年の年末だった。
きたない軍服にきたないリュックをせおったやせた人が父だと思うには時間がかかったが、子供達はいっせいに「お父ちゃんや」とかけ寄って父が帰ってきたのを喜んだ。父は何もいわずそれから何日もずっと眠っていた。
おおさかしあべのく Kさん 89さい
わたしがしゅうせんをむかえたのはよねんせいのときだった。そのぜんねん、しょうわ19ねんのごがつにおじのいるひょうごけんひかみぐん(たんば)へかぞくでそかいした。そぼ、はは、わたし、いもうと、おとうと、きょうだい5にんの7にんでいなかぐらしがはじまった。
ちちはしごとのしゅっちょうさきのちんたおからしゅっせいしどこへいったのかもしらなかった。がっこうは3ねんじょしぐみで20めいくらいでせんせいは2、3にんしかいなかった。
じゅぎょうはなくてまいにちこうていにはたけをつくりかぼちゃをうえた。くさひきするのもはじめてでしんどかった。
「とかいもん」といっていじめられたりけられたりしたががまんした。しょくりょうなんになりはははきものをこめやさつまいもとこうかんするためのうかへたのみにいきわずかにたべものをもらってきた。うすいおかゆに、よめななどののぐさをいれ、いものつるもたべた。いつもおなかがすいてつらかった。
あたまのうえをびー29のおおきなひこうきがひくくとび、よるになるとおおさかのほうめんのそらがまっかになり「くうしゅうや」とははがいった。ひろしまにげんばくがおちてたくさんのひとがいっしゅんにしてなくなったのはははにしんぶんをよんでもらったとき、もうじきわたしたちもしぬのかもしれないとおもうとこわかった。
やがてしゅうせんのひ、なにかしらないがおむかいのたばこやさんのいえにきんじょのひとがあつまってらじおをきいた。「せんそうがおわったんや」とだれかがいった。そういえばけさからびー29があたまのうえをとばないなとおもい、なんとなくほっとしたのをおぼえている。いれいたいがくるときはせいとはこうもんのまえにせいれつした。へいたいふくのひとのむねにしろいぬのでつつまれたいこつをもたれせんしされたんだとおもった。それはまいにちのようにいれいたいのぎょうれつがあった。こどものてでせんにんばりをいっぱいぬったおもいでもありへいたいさんはたまにあたらないようにとおもっていたのに、とおもった。
しべりあによくりゅうされていたちちがこうあんまるのひきあげせんでかえってきたのはそのとしのねんまつだった。
きたないぐんぷくにきたないりゅっくをせおったやせたひとがちちだとおもうにはじかんがかかったが、こどもたちはいっせいに「おとうちゃんや」とかけよってちちがかえってきたのをよろこんだ。ちちはなにもいわずそれからなんにちもずっとねむっていた。