戦跡訪問 バックナンバー

▼パルコープエリアにある「戦争のあと」マップ▼

妙見山の煙突

  • 香里製造所では宇治火薬製造所から運ばれてきた湿った火薬をスチーム熱で乾燥させ砲弾や爆弾を作っていました。煙突は石灰を焚いたボイラーのものです。煙突の上の方にある鉄の突起は、第二次世界大戦時、アメリカ軍の飛行機からの攻撃を避けるため、木の枝をくくり付けて大きな木に見せかけていました。(引用: 枚方人権政策室)

中宮平和ロード

  • 終戦まで、大量の火薬や砲弾を運ぶために現JR津田駅から禁野火薬庫(上図左図)・枚方製造所まで軍用鉄道が敷かれていました。
    1991年に軍用鉄道敷の一部であった中宮本町から中宮西之町までの約600メートルを「中宮平和ロード」として整備しました。
    ここには、昔の鉄道敷をしのばせるSL形のトンネルや線路沿いに立てられていた軍用電柱等を保存・設置しています。(引用: 枚方市HP)

被爆アオギリ2世、被爆クスノキ2世

  • 1945年の原爆投下後の惨禍を生き抜いた広島のアオギリ2世(写真左)と、長崎のクスノキ2世(写真右)が植樹されています。
    平和の尊さを伝えるとともに、悲劇を再び繰り返さないよう、核兵器の廃絶と平和の象徴として2002年に広島市から、2003年に長崎市から譲渡されました。

第四師団、中部管区司令部跡

  • 「旧第四師団司令部庁舎」は、大阪城天守閣再建と同じ1931年に建設されました。完成と同時に陸軍に献納(けんのう)され、第二次世界大戦中に軍の拠点として使用されていました。現在は複合施設になっています。

大阪砲兵工廠跡碑

  • 「大阪砲兵工廠(ほうへいこうしょう)」は、当時200以上の軍事工場が立ち並び、主に火砲・戦車・弾薬類を製造していました。その敷地面積は5,900,000m2で、現在の大阪ビジネスパーク一体、森之宮方面、さらに大阪環状線の東まで広がる日本最大級の軍需施設でした。

大阪砲兵工廠化学分析場跡

  • 1945年、大阪砲兵工廠を狙った空襲が繰り返され、8月14日の第8回大阪大空襲により80%以上の施設が破壊され軍需工場としての機能を失いました。大阪城公園の北側にのこる「化学分析場跡」は戦火を免れた貴重な戦跡の一つです。

パルコープ京橋事務所(本部)の「愛吉・すずのバラ」

  • 1954年3月1日、ビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験の犠牲となった第五福竜丸の無線長・久保山愛吉さんと妻すずさんが生前に育てられたバラです。愛吉さんは「水爆実験の犠牲者は私を最後にしてほしい」と遺言を残し亡くなりました。
    パルコープにある「愛吉・すずのバラ」は、京都府にある「立命館大学国際平和ミュージアム」より1998年4月30日に寄贈されたものです。

JR京橋駅 爆撃被災者慰霊碑

  • 1945年8月14日午後1時前後、米軍のB29一四五機が砲兵工廠を空爆、1トン爆弾をばらまきました。
    京橋駅にも5つの爆弾が落ち、うち一発が多数の乗客が避難していた片町線ホームに直撃。死者700~800名と言われています。
    パルコープ本部の最寄りでもあるJR京橋駅に犠牲者を弔うために建てられた「京橋駅爆撃被災者慰霊碑」があります。

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