▼パルコープエリアにある「戦争のあと」マップ▼

第1次大戦後、大阪俘虜収容所に収容された約760名のドイツ兵のなかに、神戸の製菓会社「ユーハイム」の創始者であり、日本で初めてバウムクーヘンを作り販売したカール・ユーハイム氏もいました。捕虜解放後、ドイツには戻らず横浜でお店を開き、神戸へ移り住みました。

このモニュメントは南恩加島小学校の子どもたちが発案して作り上げた鎮魂の礎であり、1945年に火事で亡くなった集団疎開中の旧南恩加島国民学校の男子16名を祀るもの。
地域の協力を得て完成し、台座には16名の名前と顔が描かれ、台座の中に16枚の卒業証書を保管。学童疎開の悲劇を伝え、児童も平和学習に取り組んでいます。

1929年に開港した木津川飛行場は、大阪の空の玄関口として東京・福岡便などが就航し、最大年間発着約1万回・旅客1万人超を記録しました。大阪で行われる観艦式(海上自衛隊のイベント)に参加する艦上機が集結したことも。
しかし、立地の悪さやアクセス不便、地盤問題などから1939年に伊丹の大阪第二飛行場へ機能を移し閉鎖。

1931年の満州事変を経て日本が中国の一部を満州国として建国に介入してできた国「満州国」で、1945年までの間多くの日本人もわたり住んでいました。あるときその中の佳木斯(ジャムス)という町が爆撃を受け、多くの人々が家族と死別あるいは生き別れに。犠牲になった日本人学校の旭日小学校と大和小学校の教職員および卒業生たちによって、記念碑が交野市平和台霊園内に建立されました。

昭和20年7月9日、硫黄島から飛来したP-51戦闘機を迎撃するため、陸軍・飛行第56戦隊所属の陸軍中尉・中村純一は、伊丹飛行場から三式戦闘機「飛燕(ひえん)」で出撃。しかし空中戦の中で被弾。脱出したものの、降下中に敵機の翼によってパラシュート紐を切断され、大阪府交野市星田村の水田に落下し戦死。住民が手厚く葬り、現在は鎮魂碑が建立されています。

「八紘一宇」とは、「全世界を天皇の下に一つの家とする」という意味で、『日本書紀』の神武天皇の詔に基づき造語された。第二次世界大戦中、日本の中国・東南アジア侵略を正当化するスローガンとして用いられたが、敗戦後、GHQの指示で文字がぬりつぶされたとされています。

1940年、明治維新以後の戦争で戦死された大阪府出身のいわゆる「英霊」を祀るために建立された大阪護国神社。
境内には騎兵隊・歩兵隊や海軍・空軍などの慰霊碑・記念碑が建立されており、靖国神社の地方版としての役割を果たしています。

故・加賀谷保一(かがややすかず)が1945年8月14日に自宅の庭に建てたもの。
当時、町会長だった保一さんが、近所の身寄りのない老人たちの避難所としても考えて作ったものであり、完成したのは終戦の前日のため防空壕として使われることはありませんでした。

明治38年(1905年)~39年にかけて、現在の天下茶屋駅周辺に日露戦争俘虜収容所があり、最大で6062名が収容されていました。
閉鎖された後、明治42年に陸軍省から元の地主に土地が返還され、後に宅地化されることになりました。

太平洋戦争末期、米軍は全国約50カ所で原子爆弾を落とす訓練を行っていました。1945年7月26日、東住吉にプルトニウム原爆と同形・同重量の模擬原子爆弾が投下され、死者7人・負傷73人・家屋485戸焼失の被害が出ました。本物だったら、大阪の街は全壊して10万人以上の死者が出たのではないかと言われています。

日本軍は1942年2月15日、シンガポールを占領。
占領後シンガポールを「昭南島(しょうなんとう)」と改称し、約3年半にわたって支配下に置きました。
当時は日本教育が強制され、反抗した人は虐殺されたという歴史があります。

1945年2月14日、B29が阿倍野区で投下した3発の爆弾の内の1発が、美章園駅構内の高架線路と駅を直撃、職員3名と乗客10数名が亡くなりました。
1951年8月24日、駅東側に当時の駅職員によって死者を弔うための「遭難供養之碑」が建てられました。

香里製造所では宇治火薬製造所から運ばれてきた湿った火薬をスチーム熱で乾燥させ砲弾や爆弾を作っていました。煙突は石灰を焚いたボイラーのものです。煙突の上の方にある鉄の突起は、第二次世界大戦時、アメリカ軍の飛行機からの攻撃を避けるため、木の枝をくくり付けて大きな木に見せかけていました。(引用: 枚方人権政策室)

終戦まで、大量の火薬や砲弾を運ぶために現JR津田駅から禁野火薬庫(上図左図)・枚方製造所まで軍用鉄道が敷かれていました。
1991年に軍用鉄道敷の一部であった中宮本町から中宮西之町までの約600メートルを「中宮平和ロード」として整備しました。
ここには、昔の鉄道敷をしのばせるSL形のトンネルや線路沿いに立てられていた軍用電柱等を保存・設置しています。(引用: 枚方市HP)

1945年の原爆投下後の惨禍を生き抜いた広島のアオギリ2世(写真左)と、長崎のクスノキ2世(写真右)が植樹されています。
平和の尊さを伝えるとともに、悲劇を再び繰り返さないよう、核兵器の廃絶と平和の象徴として2002年に広島市から、2003年に長崎市から譲渡されました。

「旧第四師団司令部庁舎」は、大阪城天守閣再建と同じ1931年に建設されました。完成と同時に陸軍に献納(けんのう)され、第二次世界大戦中に軍の拠点として使用されていました。現在は複合施設になっています。

「大阪砲兵工廠(ほうへいこうしょう)」は、当時200以上の軍事工場が立ち並び、主に火砲・戦車・弾薬類を製造していました。その敷地面積は5,900,000m2で、現在の大阪ビジネスパーク一体、森之宮方面、さらに大阪環状線の東まで広がる日本最大級の軍需施設でした。

1945年、大阪砲兵工廠を狙った空襲が繰り返され、8月14日の第8回大阪大空襲により80%以上の施設が破壊され軍需工場としての機能を失いました。大阪城公園の北側にのこる「化学分析場跡」は戦火を免れた貴重な戦跡の一つです。

1954年3月1日、ビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験の犠牲となった第五福竜丸の無線長・久保山愛吉さんと妻すずさんが生前に育てられたバラです。愛吉さんは「水爆実験の犠牲者は私を最後にしてほしい」と遺言を残し亡くなりました。
パルコープにある「愛吉・すずのバラ」は、京都府にある「立命館大学国際平和ミュージアム」より1998年4月30日に寄贈されたものです。

1945年8月14日午後1時前後、米軍のB29一四五機が砲兵工廠を空爆、1トン爆弾をばらまきました。
京橋駅にも5つの爆弾が落ち、うち一発が多数の乗客が避難していた片町線ホームに直撃。死者700~800名と言われています。
パルコープ本部の最寄りでもあるJR京橋駅に犠牲者を弔うために建てられた「京橋駅爆撃被災者慰霊碑」があります。